第八話 初めてのバー
大山ビルと書かれた、少しレトロな建物が見えた。
あそこの一階の一室がバーココロである。
いざ来てみると、不安と緊張で覆われていく感じがした。
やっぱり帰ろうかな、と一瞬頭によぎったが、それよりもバーに入ってみたいという気持ちが強かった。
カランカラン。
扉を開けると、オレンジ色っぽい暖色で包まれた部屋に、六席くらいあるカウンターがあった。カウンターの奥で、眼鏡をかけた少しぽっちゃりとした体型のマスターがグラスを拭いていた。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか」
「あ、はい」
「こちらへどうぞ」
コースターを置きながら、一番端の席に案内する。
マスターは少し弾んだような声で、意外にも普通のオッサンっぽい雰囲気だった。
かしこまった、硬い雰囲気だと思っていたけど、全然違った感じで、少し緊張が溶けた。
「初めてのご来店ですか」
メニュー表を置きながら、マスターが話しかけてきた。
「あ、そうです」
「こちらが当店オリジナルカクテルのメニューでございます」
もう一つ違うメニュー表を渡してきた。
とはいっても、何が何だか分からない。
「あのーすみません、バーという場所自体初めてでして…」
「おっ、そうなんですか!んー、どういうのが飲みたいとかあります?一杯七百円で出しますよ」
本当に調子が狂うというか、雰囲気はオーセンティックなのに、マスターは結構陽気だ。
「カクテルってどういうのがありますか」
「柑橘系のものとか、チョコみたいな甘いものもできますよ」
「あ、じゃあ柑橘系のものでお願いします」
「承知しました」
この言葉はしっかりとバーのマスターだった。
ボトルが並んだ棚から二本ほど取り出して、シェイカーでシャカシャカし始めた。
これがバーテンダーか。
少しして、コースターの上に、上部が逆三角形になっているグラスが置かれた。
「オレンジとジンというお酒でつくったカクテルでございます」
「ありがとうございます」
これがカクテルというやつか――。
まずは鼻にグラスを近づけて、オレンジとアルコールの鼻を突く香りを味わう。
そのまま口に運び、グラスを傾ける。
オレンジのフルーティーな味が口全体に広がると同時に、すっきりとしたアルコールが舌を刺激する。
お酒ってこんなにおいしいんだ。
「カクテルおいしいでしょ」
マスターが見透かしているように言ってきた。
「お酒がこんなにおいしいとは思いませんでした」
「学生さんですか」
急に来た。今の自分には、ほんとに答えづらい。退学しました、と答えたら気まずくなるし、フリーターといってもどんな人だろうって疑問に思われるのが想像できる。
「ついこないだまでは…今はフリーターです」
結局、両方答えた。
これが一番等身大な気がする。
「大学辞めたんですか?」
「あ、はい。辞めちゃいました」
「あらー。何かやりたいことがあるんですか」
「いえ、特にないんですけどね」
「じゃあ、これからどうしよーって感じですか」
「まさに今そんなところです」
マスターは普通の会話をするように、話していた。
美紗都のときもそうだったが、自分が変に思い過ぎなのだろうか。
もう一度カクテルを口に運ぶ。
やっぱ、うめー。
カクテルに暖色に包まれた空気。
そりゃ大人の人が行くわけだ。
バーの落ち着いた雰囲気に浸っていると、カランカラン、と扉の開く音がした。
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