【ぶんぶくちゃいな】「Hidden Agenda」に隠された真実

今週の「ニュースクリップ」で取り上げた、香港のライブハウス「Hidden Agenda」(ヒドゥン・アジェンダ)の摘発がさまざまな波紋を呼んでいる。たかが個人が経営するライブハウスが引き起こした「やっちゃったー」騒ぎだろ、と思うかもしれないが、その背景からは今年7月に主権返還20週年を迎える香港のこれまでの変化と事情を知ることができる事件である。

わたしが香港に住み始めたのは1987年夏。そのちょうど10年後に香港の主権は、イギリスから中国に返還された。2001年末までの14年間の香港生活の後半に地元のロックシーンに深く関わった立場から、今回はそんな背景を20年とはいわず、30年ほど前からまとめてみる。香港返還20周年シリーズの1本目として読んでいただきたい。

香港に暮らし始めた当初はまだそんな地元のインディーシーンの存在には気づいていなかった。だが、広東語を学ぶ傍らで香港は「文化に近い街」というイメージを持った。

というのも、香港では1年の間にたびたび芸術祭や映画祭が政府(中国語の世界では国家を代表する行政府のほかに、市役所や区役所など末端の行政機関も「政府」と呼ばれる)の主催や協賛で催されており、そのパンフレットを開くとベルリン・フィルだの、ピナ・バウシュだの、ブロードウェイで人気のミュージカルだの、日本にいても地方在住なら、チケットを手に入れる前から諦めてしまいそうな世界的なプログラムがずらりと並ぶのだから。

それに加えて、さまざまな会場(ほぼ公立)がそれぞれに日常の上演プログラムを組んでいる。お金さえあれば、それも億万長者でなくても、ほぼ毎日のように地下鉄やバスに乗って帰ってこれるどこかの会場で芸術の鑑賞ができる街だった。

チケットを手に入れるのもそれほど難しくなかった。芸術祭など毎年定期的に開かれるプログラムは開催期の約3〜4ヶ月くらい前に無料のパンフレットがあちこちに置かれる。観たい演目があれば、申込書に書き込んでチケット代にふさわしい額の小切手とともに指定の宛先に郵送する。この「小切手」はご多分に漏れず日本人のわたしにとって最初の難関だったが、香港では個人でも日常に小切手が使われており、普通に銀行で小切手口座を開くことができるので、一旦開いてしまえばこっちのものだった。

当時の日本では「チケットぴあ」のようにまず電話で予約するシステムが中心だったが、人気の演目では電話が永遠につながらず、またつながらないままチケット販売終了となり、それだけで疲弊することがよくあった。意を決して電話する地方在住者にとって、その打撃は会場に近い都市居住者の倍近い。というのも、電車で行って帰ってこれる都市居住者に比べて、地方居住者はそこに行くまでの移動手段や宿泊手段、さらには休暇申請をするという手間暇があるからだ。

それに比べて郵送1本でチケットが予約できる、というのは、たまーに取れなかったり、あるいは郵送受付期間を逃してしまったりすることはあったが、ムダに時間を取られたうえ精神的にイライラするよりずっと良かった。郵送はランダムに届くために人気イベントであっても平等性が高い。主催者も郵送受付である程度のチケットがはければそのプログラムの人気度が分かるし、その結果人気の高さが確認されるとすぐに追加公演が決まることもあった。そしてある一定期間の郵送受付が終わると、窓口販売に入る。すると、チケットが売り切れない限り、上演の数時間まで香港のあちこちにある公共機関にある統一窓口で並んで買えた。

香港が「小さい」からできるのだといえるかもしれない。香港は土地面積こそ約2700平方キロを超えているが山が多く、居住面積は25%程度。つまり東京23区の面積(約620平方キロ)とあまり変わらない場所に(当時は)650万人が住んでいた(現在は約750万人。東京23区は現在1300万人)。インターネットがなかった時代だったがこのチケット販売手法は効率の良いシステムだったと本当に思う。

今ではその過程がインターネットに取って代わられているが(窓口販売は健在)、これはあくまでも公的な会場を使った演目の場合の話である。いわゆるインディーズ、つまり大手のプロモーターが関わらない民間の会場での小型のパフォーマンスはこのシステムには組み込まれていなかった。

●香港の厳しいインディーズ事情

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