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おはよう世界【創作小説】

「おはよう、拓ちゃん」
「おはよう、ゆめちゃん」
大学の構内で偶然にも恋人と鉢合わせ、私たちは挨拶を交わす。おはよう。朝の何気ない挨拶。みんな特に気にも留めずに使っているんだろう。けれど、私は知っている。この言葉は、今日朝が来なかった人には、使えなかった言葉であり、明日朝が来なければ、二度と言えない言葉なのだ。
 なぜ私がそんなことを言いだすのか皆さん不思議に思うでしょう。理由はまるでドラマや映画のありきたりなストーリーにありがちな、病気というやつ。
 私は幼い頃に、大病にかかった。無事手術は成功。しかし入院生活はとても長く、その長さは私から社会を奪うのには、十分だった。当たり前の学校生活、当たり前の友達、世間から当たり前とされることは、全て私の理想であり、それこそがドラマの世界であった。
 だから今こうして、かねてからのあこがれだった美大に入り、彼氏もできたことが、夢のようで、しかしこの夢は永遠ではないような危うさももっていた。
「ゆめちゃんまたボーッとして自分の世界にさまよってるね」
横に並んで歩いていた拓ちゃんが横でクスクスと笑い、私は我に返った。
「ごめん。ほら、私常に現実逃避してる系女子だからさっ」
慌てて口から出た私の冗談は、“事情”を知っている拓ちゃんにとって、余計に心配させる結果になったようで、拓ちゃんの顔が一瞬曇る。
「あんま無理すんなよ」
「拓ちゃんありがとう。でも大丈夫だよ」
私は今、とても幸せだと思った。自然と笑みがこぼれる。つられて拓ちゃんも微笑む。
「ねぇお昼マック行こうよ」
「いいけど、なんでマック?」
「高校生カップルみたいでいいでしょ?」
「まぁ、たまにはそういうのも、いいね」
青春を取り戻したい欲求からくる私のワガママにも、無意識か意識的にかはわからないが、いつもいいねと言いながら付き合ってくれる拓ちゃんに感謝しながら、私たちは講義室を前に別れた。

異変に気づいたのは、三限の人物デッサンの授業で、モデルをデッサンしている時だった。モデルが二重になり、三重にもなり、地面がぐらぐらと揺れているような感覚に襲われた。
それから間もなく、私は意識を失ったようで、気づいたときには病院のベッドの上で寝ていたのだった。それからは、母と父、拓ちゃん、サークル仲間、と色んな人が見舞いにきて、目まぐるしかったのだが、少々疲れてしまったので割愛する。

結論から言うと、病気が再発したのだった。
私は美大を休学せざるをえなくなった。そして一日のほとんどを、病院で過ごした。拓ちゃんも最初は足しげくお見舞いにきてくれたが、卒業制作が近づくと、次第に足は遠のいていった。

―ああ、やっぱり夢だった 私の人生はこっちだった
涙が出てくるのに、気持ちは不思議と落ち着いていた。どこかで覚悟していたことだった。

私はそれから、毎日絵を描いた。誰に見せるわけでもなく、自分のために絵を描いた。
絵を描いている時間は、痛みを少しだけ忘れられた。唯一の、幸福な時間。

「ゆめさんの絵、とても素敵ね」
ある日、看護師さんが私にそう声をかけた。私は顔が火照っていくのを感じる。
「あ、ごめん見ちゃだめだった?机、置いてあったから見ちゃったの」
「いえ!でも私の絵、人に見せれるように描いたものじゃないし」
―人に見せれるように描いたものじゃないし。
自分でいっておきながら、その言葉が引っかかった。
「そんなことないよ。すごくいいと思う、ゆめさんの絵。うまくいえないんだけど、人も植物もみんな優しい顔してる」
「ありがとうございます」
私は看護師さんにお礼を言うと、再び自分の言葉を頭で反芻した。
―人に見せれるように描いたものじゃないし。
そうか。そっか。これは人に見せるための絵じゃない。
私の人生も、人に見せるためじゃない。私のための人生だ。

私はそれから毎日、痛みから逃げながら、絵を描いている。
痛い、苦しい、逃げたい。でも、それでも絵を描くことをやめられない。
いつか病気が治るかもしれないし、治らないかもしれない。それでも私は自分のために絵を描き続けるだろう。

窓から朝日が差して、憎らしいほどにその光が私を包んでいた。
私は、ここで、絵を描く。希望でも絶望でもない、私の絵を。