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プライベートシリーズ①       大学・同窓会誌への寄稿文  2015年5月9日作

〇先ずは自己紹介を、
昭和43年度卒(昭和44年3月)経済学部経済学科・井上甫ゼミナール・硬式テニス同好会(現・硬式テニス部)の尼子尚造と申します。
現在は、(一社)日本産業カウンセラー協会、日本産業カウンセリング学会、日本うつ病学会、日本マインドフルネス学会等に所属し衛生管理者(第一種)、産業カウンセラー、シニア人材アドバイザー、メンタルヘルス対策促進員としてメンタルヘルス分野のコンサル、講師、カウンセラーを勤め、
余暇には所属テニスクラブでラケットを振り、又ゴルフを楽しんでいます。モットーは「笑顔が一番」元気で・楽しく・健やかに・・・・
 
〇学生時代の思い出、世相は第二次学園紛争時代で大学封鎖もあり、又、横須賀の原子力空母エンタープライズ入港反対運動が盛んで、目前で幼馴染の慶応大学生が逮捕されたこともありました・・
学園祭では身重のペギー葉山の歌声にうっとり、同級生にグループサウンズのメンバーもいた・・
そしてカヌー部、ヨット部そして硬式野球部が強かった記憶があります。
寮生活では大磯から学内の寮までの深夜の強歩(マラソン)大会も思い出に残る、鎌倉で一旦止まったのが命取りとなり確か4時間30分前後かかったような・・
 
〇井上甫ゼミナールで「若年労働者の定着に関する一考察」を引っさげゼミの大会に出かけた、東北学院大学で行われた時には、終了後痛飲し帰りの夜行バスに間一髪ということも思い出される
 
〇教職課程で職業指導と云う科目を担当された外岡豊彦先生との出会いは2010年逝去されるまで続きました。
先生は内田クレペリン精神検査法の研究で日本の最高峰。
学生時代の2年間(3年・4年)、横浜・海岸通りにあった研究所でご指導頂きました。その後、先生は研究活動と共に、ご自身の病を開示され、うつ病の自助の会を主宰され、多くの人々のために尽くされました。新聞各紙もうつ病から復帰された先生をよく取り上げられました・・
編著された「憂うつの心理」、今は絶版ですが、所蔵の図書館では今も読者がおられ、先日もお見えになりました。卒業後、先生からのアドバイスでカウンセリングの勉強を始めていた私もメラン会(抑うつ友の会)大阪会場の主宰をお引受し今年で43年目を迎えます、先生の志を続けていくつもりです。
 
〇硬式テニス同好会(顧問:北見俊郎先生)での思い出は
当時の鎌倉ローンテニス倶楽部の平野三樹氏との出会いです、同倶楽部の会員だった部員の紹介で合宿のコーチをお願いし、その上、氏のご尽力で関東学生連盟の加入が叶なったもので後輩諸君の記憶に留めておいて欲しいと思う。その後、長く顧問いただいた鳴海正泰先生も当時よく大会に出ておられた記憶が・・
確か鳴海先生は飛鳥田市長の片腕として地方財政の専門家として敏腕をふるっておられたと記憶します・・
当時以降、横浜のコート事情が硬式志向となったと感じるのは勘ぐりかな・・
 
〇就職について、4年生の春、父親の死去での帰郷のおり卒論の構想を手に会社訪問をした。
就職課での事前調査で先輩の活躍企業3社を選び訪問した。怖いもの知らずの売り込みに応じていただいたのが大陽酸素㈱であった。4年4ヶ月の勤務であったが悔いのない充実の生活であった。実習後、願い通りに人事スタッフとして人事制度の改変、採用活動、スポーツ施設と研修所併設の寮建設等、本当に楽しい日々であった・・
では何故転職をしたのでしょうか・・今から思うと若気の至り・・全てをやり尽くしたあとの反動か・・偶然の中途採用を任されたのが運の尽きか・・初めての仕事に他社状況収集と嘘受験を試みたところ、熱心なオファーを受け・・
2ヶ月の残務期間の後、㈱住友クレジットサービス(現、㈱三井住友カード)へと転身した。着任後はクレジット業界の発展とともに・・・入会基準・スコアーリングの開発、会員信用変化早期発見基準作成、新規提携カードの開発・拡大、提携銀行の拡大、支店・サービスセンターの運営、カード各社協会の事務所長と躍進続きの37年間であった。
その間ボランティア活動として前述のメラン会の主宰、電話相談事業の相談員、スーパーバイザー、理事をさせていただいた、又阪神淡路大震災後、各位の協力を得て住居の再建マンション管理組合理事長として13年目にして再建を果たしました。
そして63歳で少し早い目の退職をいたしました。
 

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