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聞言師の出立 第5話(第1章 4)

「さて、話も終わったことだし、そろそろ行こうか」
 立ちあがるフロニシに、アクオは首を傾げた。
「おれですか? どこに?」
「他の世話役に会わせる。いいか?」
「あ、そうですね」
「その帰りに荷を取りに行こう。ルクトは飯を作っておいてくれないか。エクテの様子も見てやってくれ」
 おう、と応えたルクトはすぐさま立ちあがった。
「食ったら湯家に連れてってやるからな」
 にかりと笑って夕食の支度を始める。アクオも強張った笑みを返した。
 ——いいやつなんだろうけど、なんか合わなさそうだな。なんて言うか、単——
「行こう、アクオ」
「は、はい!」
 アクオは慌てて沓を履き、フロニシの後について外へ出た。
「わ……」
 見上げると満天の星。まだ陽も沈んでいないときに連れてこられてから、アクオが感じるより長い時間が経っていた。
「すごいですね……」
「星か? 都ではこれほど見えないのか?」
「明るい星しか見えないですね」
「ああ、都はここより明るいし砂も多いのかもしれないな。〈山〉の辺りで見るともっとすごいぞ。いつ行けるかは分からんが泊まれるといいな」
「どれくらいかかるんですか」
「そうだな、朝出れば昼には麓に着く。上まではそんなにかからん」
 そのとき、道の向こうから女の怒鳴り声が聞こえた。
「ちょっと! 何やってんの! 探したんだよ!」
「ああ、サレオ」
「ああ、じゃないよ! 村外れの家まで呼びに行ったのに、誰もいないじゃない!」
 短い黒髪の痩せた女が詰め寄り、険のある大きな目をさらに大きく見開いて早口の低い声でまくしたてた。
 誰かが通り過ぎ、押し殺した笑いがアクオの耳にも届く。どこからか、からかうような犬の吠え声も聞こえた。
「湯家に行ったかと思ってあっち戻って、でも中に入るわけにいかないから出てくるのや入るのや男どもに訊いてさ!」
「そうか、それは悪かった。エクテが熱を出してな、アクオに助けてもらっていた」
 ぱくり、と女の口が閉じた。
「……大丈夫なのかい」
「うん、アクオが治してくれたよ。ルテラも来てくれた」
「そうかい、それならよかった。あたしは忙しくしてたから知らなかったよ。こっちこそ悪かったね」
 フロニシは笑って頷き、アクオに顔を向けた。
「サレオだよ。世話役だ」
 ひどい剣幕の女の顔を見ては、落ち着いたままのフロニシの顔を見てと、為す術もなくおろおろしていたアクオはその言葉でふと気づいた。
「ああ、朝に……」
「そうだね、会ってはいるね。サレオだよ。よろしく、アクオ」
「サレオはルテラの妹だ。一緒に住んでいるからサレオもお隣さんだな」
 そう言われれば、気の強そうな顔立ちが似ているかもしれない——アクオは軽く頷いた。
「ところで、呼びに来たということは」
「うん、他の世話役も集まってるよ」
「そうか、ちょうどよかった。これから行くところだったよ」
「ええ? あたし、無駄足だったのかい!」
 ——賑やかな人だな。
 思わずくすりと小さな笑い声を洩らしたアクオを、サレオが軽く睨んだ。
「笑いごとじゃないよ、まったく」
 若い聞言師は慌てて目を逸らした。

「そこだ」
 フロニシが指差す先には見上げるほど大きな岩があり、その裏には岩から生えるように木造の高い建物が立っている。建物の表に回ると、ちょうど男が戸を開けて入っていくところだった。
 戸の少し向こうの壁は、人の背より高いところで大きく外に開き、中のぼんやりした灯りに照らされた湯気が夜空に白く立ちのぼっている。つん、と異臭がアクオの鼻を突いた。
「これって……」
「うん、これが湯家だ」
「あんたも後で来るんなら覚えときな。手前が男、向こうが女の入口だからね。わざとじゃなくても、間違ったらひどい目に遭うよ」
 目をぐっと細めて、サレオがアクオを睨みつける。
「あんたは手前。言ってみな」
「男は手前……」
 忘れるなと言って、己より少し背の高いアクオの頭を平手で軽く叩いた。フロニシは、ルクトと一緒に来るから大丈夫だと笑う。
「残念だが、まだ湯には入れないぞ。入るのはこの戸だ」
 二つの窓の間にあったもう一つの戸をフロニシが開けると、暗がりの中にごく小さな土間があった。急な階段の上には、四角く切りとられたほの赤い灯りが見える。
「沓は脱いでくれ。足元に気をつけろ」
 フロニシの後ろを、アクオは壁に両手を突きながらゆっくり上っていった。
 危うく足を踏み外しそうになること数回、ようやくアクオは狭い部屋に足を踏み入れた。炉と小さな灯りの周りには、男が二人、女が一人いる。いずれもが片側に黒い耳飾りをつけていた。
「やれ、待たされたな」フロニシと同じ年頃の男が口を開いた。
「すまなかったな。エクテが熱を出したもので、アクオに治してもらっていた」
「大丈夫なのか」年老いた男が訊ねる。
「うん、もう大丈夫だろう。座ってくれ、アクオ」
 聞言師は女の隣に胡座を組んだ。サレオも腰を下ろし、フロニシはアクオの隣に座って茶を淹れる。
「まずは改めて紹介しよう。聞言師のアクオ」
 世話役たちが頷く。
「アクオの右はエーピオ」
「よろしくね」
 面長で威厳を帯びた顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。アクオは丁寧に応えた。
「その隣はカーイコン」
「よく来た」
 重々しさすら感じられる、皺が深く刻まれた顔。しわがれた声の労いの言葉に、アクオは礼を言った。
「その隣がヌルゴスだ」
 男は眼光鋭い三白眼を細め、薄い唇の片側を歪める。
「お見知り置きを」
 何も言わないヌルゴスにアクオは挨拶した。
「私たち五人がこの村の世話役だ」
「この度は私を受け入れてくださりありがとうございます。短い間ではありますが、聞言師として何かできることがあればどうぞおっしゃってください。持てる技のすべてをもって、できうる限りのことをいたします」
「ふん、挨拶は上等だな」
「あんたは!」
「若造に漂陰が鎮められるのか」
「やめなさい、ヌルゴス。失礼でしょう」
 サレオの怒気を意に介さなかったヌルゴスも、エーピオのたしなめには口を閉じた。
「さて、さっきも言ったが私はエクテの面倒をみていて、今どうなっているのか分からない。教えてくれないか」
「じゃあ私が」エーピオが応えた。
「聞言師が来たすぐ後に世話役で話し合って、昼過ぎに使いを立てました。早ければ明日の昼前には巫から返事をもらえるでしょう」
「うん、ありがとう」
「それから、聞言師にお願いしたいことがないかも話し合いましたが、今のところはまだ。それぞれが何かあれば、ここに持ってきてください」
「分かった、そうしよう」
「病が出たら、すぐお願いすることもあるかもしれません。あともうひとつ、心配していることがあります。場合によっては力を貸してください、聞言師」
「喜んで」
「皆、他に何かあるか」カーイコンが五人を見回す。
「ではこれで終わろう」
 世話役たちは音を立てずに両手を合わせる。何かの挨拶か合図なのだろうと思い、アクオはただ深く頷いた。

 外に出て、フロニシが口を開いた。
「すまなかったな。ヌルゴスが失礼なことを言った」
「いえ、若造なのは本当ですから」
「ほんとあれ、失礼なやつなんだ。昔からそうさ。あれは気にしないでいいよ」
 だがアクオにとって、ヌルゴスのような態度は見慣れたものだった。
 子供だったときも、師に連れられてあちこちに行った。自身や家族にとって大切なことに赤の他人が、ましてや子供が係わるのを厭う人間には、大勢出会っている。だがそれも至極当然のことだとアクオには思える。
 昔のアクオにとって何より厭わしかったのは、人から疎まれること、敵意を抱かれることではない。子供である己にすら縋ろうとする人間が決して珍しくないこと、そしてかけられる思いの重さだった。それは恐怖に他ならず、大人になってからも押し潰されそうになることがある。
 ——それに比べれば、さっきのなんて何でもない。
 ふと、アクオは空を見上げた。
「すごいなあ……」
「ん? 星かい?」
「ああ、都ではこんなに見えないそうだ」
「へえ。ああそういえば、昔ここに来た聞言師も似たようなこと言ってたねえ。星も星辰もここは少し違うんだって」
「せいしん?」
「知らないかい? 星と星を結んで形を作るんだ。ほら、たとえばあれは馬さ。あの明るいのと、青いのと——」
 サレオはアクオの手を取って夜空を指差していく。サレオにその話をした聞言師に思い当たったフロニシは、横を向いて静かに吐息を洩らした。
「——それから、〈山〉の横に見えるあの赤い星。あれは都からは見えないんだって。今のうちに見ときなよ」
 アクオはしばらく立ち止まって、その大きな星を見つめていた。

「あれ? あんたらどこ行くのさ」
 フロニシの家を通り過ぎてそのまま歩こうとする二人に、サレオが訊ねた。
「ああ、アクオの荷を取りに行く。エクテの恩人には私のところに泊まってもらうよ」
「あんた、ちょっと。なんでさっきの集まりで言わなかったのさ」
「そうだったな、忘れていた。後で言っておこう」
「まったく、またあれが騒ぐね。隙を作るんじゃないよ」
「大丈夫だ」
 アクオにも、五人の世話役の間柄が少し見えてきた。とは言え、己が火種になることは本意ではない。
「あの、迷惑になるんでしたらおれはあの家に——」
「馬鹿言うんじゃないよ」
 サレオがばっとアクオを振り向く。
「迷惑なのはあれ。あんたが気にすることじゃないよ」
「迷惑かどうかは別として、そうだな。アクオは気にしないでうちに来ればいい」
 穏やかな声でフロニシが言った。
「……はい、じゃあお世話になります」
「そうだ、あんたたち夕飯はもう食べたのかい」
「いや、ルクトが支度している」
「なんだ、じゃあうちにおいでよ。旨いものをご馳走してあげるよ。まあ作るのはあたしじゃないけどね」
「ありがとう。だがエクテがいるからな、また今度にしよう」
「ああそうだったね。じゃあエクテが元気になったらみんなでおいで」
 サレオは手を振りながら家の中に姿を消した。

 アクオたちが馬を曳いてフロニシの家に戻ると、ルクトは遅えよと言って蓋をした炉の上に料理を並べはじめた。
「エクテの様子はどうだ」
「水を飲んでぐっすり寝てるよ。麦粥も作っておいた」
「うん、すまないな」
 大皿に盛られた豆の辛い煮物、乾酪をたっぷり載せた麦の厚焼、芋と人参の少し甘い炒め物。三人が腹に入れていると、廊下から幼い顔がひょっこり出てきた。
 布団の中では苦しそうに閉じていた目は、都でアクオがよく見る淡い青。尖り気味の小さな鼻は、夕食の匂いを懸命に嗅いでいる。
「おうエクテ、腹減ったか」
 少年がこくこくと頷く。
「んじゃ少し待ってろ、粥を温めてやるから」
 立ちあがったルクトとフロニシの間に腰を下ろしたエクテは、見知らぬ者の顔をじっと見る。
「この人はな、アクオだ。お前の熱を治してくれた人だよ」
 エクテは少し首を傾げ、やがて軽く頷いた。
「悪りいな、こいつ無口なんだ。ほら食え。水も飲めよ」
 乾酪を散らした麦粥の椀を渡され、エクテは顔をうずめるようにして一心不乱に食べはじめる。水を飲み、匙を口に運ぶエクテの姿に、アクオは胸に残っていたしこりのようなものがようやく溶けていくのを感じた。

 夕食に舌鼓を打った後、アクオはルクトに連れられて湯家へ行った。帰ってきた二人と入れ替わりに、フロニシも湯に出かけていく。
「じゃあおやすみ」
「おやすみ、ゆっくり寝ろよ」
 ルクトはエクテの部屋に入っていった。食べ終えるが早いかうとうとしはじめたエクテがまだ少し心配なのだろうと、アクオはその後ろ姿を見送った。
 そして溜め息を吐き、あてがわれた奥の部屋に入って戸を閉める。
 手燭を石の板の上に置いて本を手に取り、挟んだ紙を取りだした。広げると、書かれているのはエクテの身体の〝声〟。だがアクオの目は、〝声〟の後に書かれた言葉に吸い寄せられる。他より太く大きな字で書かれた、〝声〟とはあまりに異質な——

お ま え は だ れ だ

——アクオへの誰何すいかであった。
 アクオが身を震わせたのは、まだ肌寒い春の夜のせいだけではなかった。


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