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聞言師の出立 第6話(第2章 1)

 朝、アクオの目の前には何枚もの紙が散らばっている。
 その口からは大きな溜め息が洩れた。

 エクテの身体の〝声〟とは違う、己への問いかけ——おまえはだれだ。その言葉に何者かの意思を感じ、アクオの聞言師としての自信は揺らいだ。
 人の〝声〟には二つの種類しかない。
 身体の断片が発するもの。
 人としての思考や行動の基となり得る——すなわち欲、肉体が滅べば漂陰と成り果てる——もの。
 どちらも人の意識に上ることのない、わば深い水底の揺らぎだ。
 水面に伝わって波を立てれば、それを見て揺らぎの存在を推し量ることもできようが、揺らぎそのものが見えることはない。そして人を一おうの湖とすれば、深淵の揺らぎが別の湖にさざ波を立てることもない。
 〝声〟が他者に語りかけることなど、できるはずがないのだ。
 ——でもひょっとしておれは間違っていて、あれはエクテの〝声〟だったのか。人の考えていることが〝声〟になることもあるのだろうか。
 それを確かめるために、修業中に読んだ膨大な本をもう一度調べてみようと思い立って、アクオは布団を出た。
 フロニシの作った朝食をそそくさと終えて部屋に戻るなり、戸を閉める手間も惜しんでどすんと床に腰を下ろし、板の上に紙を広げる。
 聞言筆を手に取ったアクオは目をつむり、深く呼吸した。
 ——とにかく、人が〝声〟で聞言師に語りかけられるかどうかを確かめなきゃ。もし妙な〝声〟がまた現れたら、それも手掛かりになるしな。
 己の記憶を探ろうと、アクオは頭の中をぐるり、、、と回して〝篩〟を作った。

 聞言師は、聞きたいこと知りたいことを〝篩〟で選り抜く。己の記憶を探るときもそれは変わらない。
 人によってさまざまだが、アクオは〝樋〟と〝篩〟と聞言筆が繋がっているところを思い浮かべることにしていた。
 まず〝篩〟に、「人は〝声〟で聞言師に話しかけられるか」という問いを〝網〟にして張る。
 そこに〝樋〟から記憶を注ぎこむ。
 己の身体から勝手に筆液が流れこまぬよう、普段は下ろしている指先の〝堰〟を抜く。
 すると、問いの答えとなる記憶があれば、黒い液となって聞言筆に流れこむはずである。
 アクオは目を固く閉じたまま、筆がかすかな音を立てるのを待ち——だが筆の中に液は出てこなかった。
 ならば、そのような記憶はないのだ。
 師の家にある聞言術の本を読み尽くしていたアクオは、心の底から安堵した。
 ——よかった、おれは間違っていなかった。じゃあ次は、異質な〝声〟を見たことのある聞言師はいるか、だな。
 ぐるり、、、。しかし、筆液はやはり溜まらない。そこで、「〝声〟とは何か」という〝網〟に張り替えると、今度はしゅるしゅると記憶が液になり、すぐ筆に溜まる。だが、次々と書きだされる本の一節はどれも聞言術の基ばかりで、忘れていたことなど何ひとつない。
 あり得ないはずの〝声〟がアクオに誰何することもなかった。
 ——後は、〝声〟を書きだしたときの聞言師の手記くらいかなあ。念のため、〝声〟を選り抜くために頭の中に〝篩〟をどう作るか、なんて辺りも書きだしてみるか。
 ふと顔を上げると、周りを埋め尽くす、己の記憶を書きだした無数の紙片。何の手掛かりも得られず、床が紙で見えなくなっていくだけかもしれない。
 そう思って洩れた溜め息であった。

「お前、こんなに紙広げて何してんだよ」
 いつの間にか、ルクトが部屋を覗きこんでいた。呆れたように片眉を上げ、中を見回している。
「ああ、昔読んだ本を思いだしてたんだ」
「あ?」
「聞言術なら、記憶に残っていることをいろいろ思いだせるんだよ」
「へえ、そりゃまた便利だな」
 さほど感心した様子も見せずに、ルクトは飯間に来るよう言うとすぐに姿を消した。もう昼かと思った途端、漂ってくる匂いがアクオの腹を鳴らす。
 しかし、いそいそと向かった飯間で待っていたのは、昼食ではない。険の強い大きな目を柔和に細めて、エクテに話しかけているサレオだった。
「——そうかい、そりゃあよかった。じゃあ、ディアノにも元気になったって言っとくよ。あの子も心配してたからね」
 エクテは大きく頷き、昼食の支度をしているフロニシに顔を向けた。
「おじさん、遊びに行っていい?」
 ——おじさん?
「昼飯を食ったらな。もうすぐだからちょっと待っていてくれ」
「わかった」
 エクテはそう言うと、飯間の上がりがまちに腰をかけて脚をぶらつかせはじめる。
 不思議に思いつつも訊けないままの聞言師に、サレオは巫から返事が来たことを告げた。
「いつでも来いってさ。でも新月が近いから、できれば早くって言ってる。どうする?」
「私も早い分にはかまいません。なんなら今すぐにでも」
 まあ待て、とフロニシが口を挟んだ。
「私とルクトも行こう。昼飯を食った後はどうだ」
「え? でも道を教えてもらえれば——」
「いや、夕べも言ったが、ルクトにもそろそろ耳飾りを作らせようと思っていたからな。よかったら一緒に行かないか。もちろん、聞言師の務めに差し支えなければだが」
「いえ、それは大丈夫です。一緒に行ってもらえるなら心強いですし」
 そうかと頷いたフロニシを、エクテが食い入るように見ていた。
「どこ行くの?」
 その顔には不安のかげが落ちている。
「うん、三人で〈山〉へ行ってくる。お前は——」
「ぼくも行く」
 上がり框の角をぎゅっと握り締めるエクテ。フロニシは屈んで、大きく見開かれている青い目を覗きこんだ。
「すまない。お前はまだ熱が下がったばかりだから、身体が辛くなるだろう。明日帰ってくるから待っていてくれないか」
「そうだね、エクテ。まだちょっと元気が出ないんじゃないのかい。今日はうちに来な。ディアノと遊べるよ」
 サレオも、フロニシの横に屈みこんで少年に笑いかけた。
「……わかった」
「うん、すまない。必ず明日帰ってくるからな。絶対だ、約束する」
 こくりと頷くエクテの頭を、フロニシはやさしく撫でた。
「サレオ、ありがとう。ちょうどお願いしようと思っていた。エクテを頼む」
「エクテならいつでも大歓迎さ。ルクトみたいにでかいのは、邪魔だから御免被るけどね」
 にやりと笑うサレオに、エクテも口元を少し綻ばせる。並んでアクオも腰をかけ、少年の頭に手を乗せた。
「そうだ、その図体ばっかりでかいルクトはどこさ、畑かい」
「うん、昨日はレイアデスにやってもらったからな、そっちの畑も後で手伝うからって張りきって——ああ、すまない。またお願いできるか」
 音を立てて、サレオはフロニシの背中を叩いた。
「アクオの馬の面倒もみてやるよ。今度、うちの畑もたっぷり手伝ってもらうからね」
 他の世話役に伝えてくると言うと、サレオは姿を消した。
 空腹を抱えたルクトが帰ってきたのは、そのすぐ後だった。昼食を終わらせたら〈山〉へ行くというフロニシの言葉に、茶色の目がまじまじと見開かれた。
「き、急じゃねえか?」
「もう決まったことだ。早く支度しろ、一晩分だ」
 そう言い足すと、フロニシはくるりと背を向けて昼食の支度に戻る。ルクトはぶつぶつ文句を言いながらも、己の部屋へ姿を消した。
「おれのために——」
「遅かれ早かれ、ルクトは〈山〉に行かねばならん。しかも聞言師と一緒なら、あれも何か学ぶことがあるだろう。ありがとう」
 食事を作るフロニシの背に、アクオもそっと礼を呟く。手の下で、エクテの顔が己に向けられるのが分かった。


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