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聞言師の出立 第7話(第2章 2)

「〈山〉はここから半日かからん。夕方には着く」
 村と森を繋ぐ橋の手前で、フロニシが言った。
 アクオの目の前には、さほど大きくないが水の色の濃い川がゆったりと流れている。幅のある木橋の向こうには、深い森が広がっていた。
 ルテラとサレオの家に向かう途中、寝小便するなよという一言でエクテの小さな拳を受けたルクトも、もう腹を押さえていない。お前の小さい頃と一緒にするな、とフロニシに後で返されて真っ赤にした顔も元に戻っていた。
「ここに獣は出ないんですか」
「うん、この森に危ないのはいないな。大きいのはせいぜい鹿ぐらいだ」
「しか、ですか?」
 不得要領な顔になったアクオに、ルクトが細い目を丸くした。
「都の辺りにはいないのか? お前の馬より小さいくらいのやつだ。旨いんだ、皮も使えるしな」
「へえ、どんなんだろ。それで弓を持ってきたのか」
 アクオがルクトの背に顔を向ける。
「いや、そりゃ無理だ。何人かで行って木の間に何本も縄を張るんだよ。そこに追いこまなきゃ。あいつらはすばしっこいから」
「じゃあ弓は」
「念のためだよ。お前だってその棒、武器なんだろ」
 腰に差している細い金棒を指差したルクトに、アクオは曖昧な返事をかえした。
「そういやさ、都じゃ戦い方を習うんだって?」
 都に兵はいない。いざというときは住む者が都を護る。そのために教練があり、剣の使い方や戦術を習わされる。
 アクオの言葉に、ルクトが羨ましげな目を向けた。
「お前も剣が使えるのか」
「いや、おれは剣とか槍とか、からっきしだったよ。だから代わりに短棒術を習った」
「だからそれか」
「うん……使いたくないけどな」
 アクオの手にいつかの悍ましい感触が蘇り、思わず己の短着を握り締める。少し俯いたその顔を、フロニシが振り返って数瞬見つめた。

 〈山〉の麓の小屋に着いたのは、夕方までまだ間があるときだった。
 すぐ行けば巫に挨拶して陽が沈む前に戻ってこられるだろうと言い、フロニシは荷をルクトに預けると、そのまま〈山〉に登っていった。
 小屋には竈を据えた土間と炉を切った飯間しかなかったが、炉に蓋をすれば三人がちょうど寝られるほどの広さはある。井戸はないが小川はあっちだ、不浄はこっちだとルクトが指を差した。
「ルクトは来たことあるのか」
「おう、巫に食い物を届けるからな。俺ら若いのが二日おきくらいに来て、水も汲んで登るんだ。ときたま遅くなったり天気がひどくなったりしたら、ここに泊まってる」
「大変だな、それは」
「巫に比べれば全然大したことねえよ。来るのは順番だしな」
「巫かあ……巫ってどんな人だ」
「どんなって、別に普通の人だぞ」
 アクオは〈山〉の方角を見上げた。
 子供の時分から二十五年もの間、〈山〉を下りられずほとんど独りきりで暮らす。来る日も来る日も、どこの誰とも知れない人間が残した漂陰を、どこの誰とも知れない人間のために鎮める。己の責に終わりが来るのはいつなのか、そもそもあるのかどうかすら分からない。
 それがどれほど過酷な生き方なのか、アクオには見当もつかなかった。どうかすると、同じ責を担っていながら都で暮らし、務めとは言えあちこちに出歩き、人と会い、たのしみさえ得られる己ら聞言師を憎んでいるかもしれない。
 だが仮にそうであったとしても、男が聞言師になったら〈山〉へ行くというのが古くからの盟約だ。せめて聞言師としての務めをしっかり果たそう——アクオは己に固く誓った。
 二人は軽く掃除をし、荷を解き、水を汲む。そうこうしているうちに陽は傾きかけ、言葉通りにフロニシが戻ってきた。疲れを浮かべていたが屈託があるようには見えないその顔に、アクオはほっとした。
「やれやれ、これくらいでこんなに疲れるなんてな。私も年かな」
「だな」
「寝小便垂れは黙れ」
「いつの話だよ!」
「うるさい。晩飯はいつできる、早くしろ」
 声を立てずに笑うアクオを、ルクトが睨みつけた。
「おい、お前も手伝えよ!」
「ごめん、おれは料理できないんだ」
「ちきしょう、使えねえやつだな!」
 ルクトは悪態をつきながらも、手際よく夕食を仕上げる。豆と野菜の煮込みと麦の薄焼を小屋にあった大皿にそれぞれ盛ると、湯飲みに汲んだ大瓶の水とともにアクオに運ばせた。
「今日はそれだけだからな」
「うん、上等だ。いただこう」
 その夜の煮込みは少し塩辛かった。

「さてアクオ。話をしよう」
 夕食が済むと、片付けもルクトに任せてフロニシは言いだした。
「エクテのことだ」
 その声に、文句を言いながら器を運んでいたルクトの足が一瞬止まる。手伝おうと立ちあがりかけていたアクオは、そのまま腰を下ろした。
「言おうかどうか迷ったのだが、アクオはエクテを助けてくれた。これも何かの縁だ、聞いてくれないか」
 淡い笑みを浮かべる引き締まった顔に、アクオは頷いた。
「うん。昼間のことで不思議に思っただろうが、エクテは私の甥、弟の子だ。
 弟のアステールは、今のルクトより若いときに村を飛びだしていった。頭のいいやつでなあ。
 知っての通り、この村は大切な責を負っている。出ていくのは村を裏切ることだと考える者もいる。少なくとも、笑って送りだす人間はいないな。それでも、こんなところでは学べない、都へ行きたいと言いだした。
 子供ではなかったが大人でもない、そんな歳で遠い都まで独りで行こうとしても、途中で野垂れ死ぬのが落ちだと私たちの親も反対してな。結局は夜中に黙って行ってしまったよ」
 ルクトも、洗いかけの器を置いて上がり框に腰をかけている。
「それが何年も経って、いきなりふらりと村に帰ってきたのだ、エクテを連れてな。
 ずっと都にいたそうだ。修学所と言うのか、そこで学んで官吏になれた。都の民が息災に暮らせるようにするのが務めだったと言っていたな。連れ合いにも恵まれてエクテが生まれた。だが——」
 あるとき、疫病が都で流行はやりはじめた。医術師はもちろんアステールたち官吏も奔走したが病の勢いは収まらず、数多あまたの死者が出た。エクテの母もその一人であったという。
 アクオもよく覚えていた。人から人に伝染うつる病だからと、〝紋〟で苦しみを和らげることも、死にゆく人々の漂陰を聞言筆で吸いだすこともできない。師の家に閉じこもったまま、己の無力さに打ちひしがれる日々だった。
 そしてそれはアステールも同じだった。流行り病が終息すると、救えなかった民、救えなかった妻に呵責が募り、ついには職を辞して村に悄然と帰ってきた。
 ルクトが俯いて、己の膝に視線を落とす。
「それでも、幼いエクテを連れてそんな長旅をよくもまあ無事で、と私はうれしかった。もう逢えないと思っていたアステールが、しかもあんなかわいい子を連れて帰ってきてくれたのだから、私だって泣いて悦んだよ」
「俺も弟ができたって、すげえうれしかった」
 真情のこもった呟きに、アクオはふっと俯いて唇を嚙んだ。
「そのときには親父もお袋も死んでいたから、アステールは何度も墓で泣いていたな」
 フロニシは村の方に顔を向け、数瞬口を閉じる。
「うん、とにかくだ。私とルクトの他に、アステールが帰ってきたのを悦ぶ者はいなかっ——違うな、サレオたちは別か。
 まあ、アステールは懸命に働いたよ。ささいな病なら治せたしな。都で学んだことをいろいろと皆に教えて、おかげで畑もよくなった。そんなこんなで少しずつ周りの風当たりも変わって、ようやく村の人間になれた。実はエーピオと結ばれそうにもなっていた、そのくらいのときだよ——アステールは川で溺れて死んでしまった。泳ぎは達者だったはずなのだがな」
 突然、アクオの身体がびくりと震え、灰青の目から涙がひと筋、頬を伝った。すぐさまアクオは顔を伏せ、片手で目を覆う。
「どうした?」
 両眉を上げたフロニシに、アクオは手のひらを突きだした。
 ——落ち着け、死んだのは知らない人だ、これはエクテの話だ、おれの話、、、、じゃない。
「……やめるか?」
「ま……待ってください……少し」
 喉を震わせながら、ゆっくり深く呼吸する。
 二人の視線が注がれているのが分かる。顔を上げなくとも、心配されていることが分かる。
 だが、訳を語るべきなのか。
 語れるのか。
 己に言わずともよい過去を明かす、目の前の二人になら語ってもいいのか。
 都へ帰ればもう会うこともない、この二人になら。
「すみません、もう大丈夫です」
 涙を袖で拭い、アクオは顔を上げた。フロニシは気遣わしげに眉間に皺を寄せていたが、やがて頷いた。
「うん。あれから五年は経つな。エクテは、アステールのことを恋しがって泣くようなことはもうないが、今でも誰かがいなくなるのを嫌がる。こうやって一晩出かけるだけでもな」
 ぐすり、とルクトが洟をすすり上げる音を鳴らし、だが明るい声を響かせた。
「なあ、早く帰ってやろうぜ!」
「うん、そうだな。早く安心させてやろう」
 フロニシの浅黒い顔に、どこか弱々しい笑みが浮かんだ。

 少ない器を洗い終わったルクトが飯間に上がった。胡座を組んで後ろに手を突き、やり残したことを探すかのように洗い台に目をやるが、アクオの顔は見ようとしない。フロニシも茶を啜るだけで、何も言わなかった。
 その心地よい沈黙が、アクオの背を押した。
「……聞いてもらえますか」
「うん」
 ルクトも横顔を見せながら、ゆっくり頷く。
 アクオは、革箱の聞言筆の横にいつも入れている袋から、二つの小石を手のひらに転がした。
 真っ白い石と鈍く光る石。
「おれには——弟がいました」
 それは師のリオスしか知らない、親にすら話したことのない、底の見えぬ後悔だった。


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