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前しか見えない目玉をつけて〜フジノジュンゴ自叙伝


○ご挨拶

今回は僕の自叙伝を手に取って頂きありがとうございます。

※本書は10分程度で読めます。


僕の40年の人生を記したものになりますので、特にマネタイズが学べたりするものではございません。


しかし、我ながら数奇な人生なのできっと読んで頂けるとあなたの勇気を後押しすると思います。


では、僕の人生をお楽しみ下さい。


○はじめに

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いつからだろう?大小サイズは違ったとしても、何か目指していないといられなくなったのは。



思い出せるのは小学6年生の頃、サッカーにとことんハマって、北海道釧路市共栄小学校で毎日サッカーしかしてなかった。


同級生はTVゲームにハマってたけどやったこともなかった。
たまたま親の転勤で札幌から釧路にやってきて入った学校だった。
友達が作れなくて小学校2年生で始めたサッカー。
たまたま入った学校は釧路市屈指の強豪だった。



小学6年生の最後の大会、僕達は釧路市で優勝し、全道大会の壮行会が学校で全校生徒の前で行われた。
そこで僕は何を思ったか1ミリの迷いもなく「全道大会で優勝して全国行ってきます」と言っていた。
本当に行けると思ってた。
そして本当に全道大会に優勝して全国大会に出場した。



今もだけど昔からやる前から自信がある。
なんでこういう思考になったんだろう?
物心ついた頃から「やれば出来る」って根拠のない自信があった。



きっとスピードスケートの元オリンピック選手の父親と、なんでも許してくれる母親のお陰かもしれない。




あの頃から変わらない。ブルーハーツの歌詞にある『前しか見えない目玉をつけて どこへいくのか どこへいくのか』
チャレンジし続ける人生しかわからない。今までもこれからも。



○イジメ、ダメ、ゼッタイ

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中学生になり、親の転勤で北見に転校。
そして、また1年で札幌に転校。
ここからの2年間が地獄の日々だった。


イジメ。


一人に目をつけられて毎日暴力や嫌がらせ、授業中足にシャープペンシルを刺される毎日。殴られたり…僕が何をした?



登校拒否。
そして転校。
転校先でまたイジメ。



また1人に目をつけられ毎日脅し、カツアゲ。
さらにサッカー部でも部員から嫌がらせ、監督も見て見ぬ振り。
集団イジメなら全て諦めれたんだけど、イジメが終わればみんな知らないふりして平気な顔して話しかけてくる。



この時に思った。
人は状況で変わる。
そして、人は弱い。
自分を守りたがると。


また登校拒否。



勉強もついていけず、心の支えのサッカー部でもいつも独りで練習させられる日々。あれは辛かった…



誰も信じられなかった時期。
でも、この時期のお陰で本当に強くなった。
あれより辛い日々はないなぁ。



高校は逃げるように遠い学校へ。
そこでは本当に楽しい高校生活だった。
サッカーも札幌1位で全道大会に行けたし、レギュラーではなかったけど、ちゃんと試合にも出れたし親友も出来た。



ただ、この時期は何も大きな変化はなかった。
多少の逆境が人には必要らしい。
振り返ると簡単な時期より、難しい時期が人を育てるらしい。



高校も卒業が迫り進路を選ぶ時期。
サッカーが終わって何もやりたいことがなかった僕は、なんとなく工業系の会社に就職。



しかし、3ヶ月で辞めた。
本採用前に辞めた。
今でも思うけど、これが人生最大の正解だった。



単純に嫌だから辞めた。
つまらないから辞めた。
周りには白い目で見られた。



今も思うけどこれは変わらない。
嫌なら辞めたほうがいい。
だって嫌なんだもの。



そして、転職をひたすら繰り返して生活がままならなくなった。仕事がとにかく続かない。だって、全部つまらないから。



あの時、僕は選び方を間違っていた。
やりたい仕事を探してたのが間違いだった。
そんなものない。



人生の本業は仕事ではない。
やりたい仕事ではなく、どんな生き方をしたいかを知ることが大切。


○転職

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自分は何がしたいのかわからなかった。
ただ、会社に行きたくなかった。
工業系の会社の後はアパレル。
単純にモテそうだから。



この頃にバンドも始めた。
アパレル時代、楽しいことは楽しいし、ファッションセンスも上がるけど。
結局安い給料で服を買わなければいけないから、なーんにも出来ない。
ファッションセンスが上がっても時間とお金が無ければ人生のセンスは上がらない事を知る。



お金を求めてパチンコ屋に転職。
しかも働いていた服屋さんの真向かいのパチンコ屋。
どんだけ視野が狭いんだ。
お金は良いけど、毎日が騒音の中の勤務。
そして、パチンコをやってる同世代を見ると本当に嫌な気持ちになった。



人生の無駄遣い。
でも、結局ペコペコしながら働かなきゃいけない。
それもすぐ辞め、深夜の居酒屋。白木屋。
これはパチンコ屋の3軒となり。



どんだけ視野が狭いんだ。
深夜働けば給料もいいし日中も時間が出来ると思った。
本当に安易な思考。
実際は昼過ぎまでダラダラ寝て、仕事して帰る。



最後は店長と胸ぐら掴んで喧嘩。
そしてクビ。



時間とお金のバランスって難しい。
両方取るためにバンドを一生懸命やった。
仕事後にスタジオに入って、石狩までバンドメンバーを車で送って。夜中の3時。
石狩街道の路肩に止めて車で寝落ち。



やればやるほどお金はなくなり。
やればやるほど自分と凄い人の差がわかる。



遊びの時はわからないけど、真剣にやればやるほど本物になれないことがわかる。
適当に楽しんでいる時が一番楽しかったりする。
結局、バンドも半端なまんま惰性で続けてた。



すすきののロビンソン(現ラフィラ)の前で路上で弾き語りをしてスタジオ代を稼ぐ毎日。



とにかく金がない。



彼女が出来ても何にも出来ない、実家からも出れない。
そんな時期に、路上の弾き語りで知り合った、オーくんと次郎ちゃん。
この二人のバンド「VOX」のライブに行った。
やられた一発でファンになった。



それと同時に自分が表現したいことはもう「VOX」がやっている事に気付く。
でも、他に夢中になれるものもなくバンドを続けていた。
ボロボロのジーンズに、改造したスーパーカブ。
アコギを肩に背負って冬でも路上で弾き語りをしてた。



やめれない。
やめるのが怖い。
目標を失うのが怖かった。



その頃に19歳になってた。
周りは就職して楽しそうに働いてたり、学生を楽しんでたりした。
それに比べて自分は…



仕事も続かない、金もない、車もない。
あるのは高校時代から乗ってる、シャフトの曲がったままのスーパーカブ。
夢を持つのはいいけど、少しづつ現実との狭間で悩み始めてた。



希望を持つから不安がやってくる。
希望なんか持たなきゃいいのに、希望を持たないと生きられない。
死んでしまった方がいいのかもとか思ってた時期。
なんとなく生きれたらどんなに楽か、でもそれだけは無理だった。



人生は一回。
自伝を何冊も書けるような生き方をしたかった。
かっこいいヒーローに。
かっこいい男になりたかった。



そんな時昔の彼女からある人を紹介された。
僕の生まれ変わった瞬間だった。



○ピンチとチャンス

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紹介された人はアツシさん。
僕の5つ上のイケメン。
露骨なイケメン。
男爵と呼ばれるほどのイケメン。
出会いは衝撃的だった。



元彼女に「かっこいい人がいるから会いにいこう」と、1%もそそられない誘い方で誘われる。
元彼女がいうかっこいい人になんて会いたい人類がいるとしたら、それは神だ。
僕は神じゃないけど、なんかわからず連れて行かれた。



場所は月寒。
潰れた喫茶店を改造したアツシさんのアジト。
きっと、高級車に乗ったスーツのいけすかない男が来ると思い。
尖りきっていた僕は、思いつく限りの印象が怖い服で会いに行った。



しかし、アツシさんは自由人そのものの人だった。
北海道で3月なのにハーフパンツだったもの。
自由すぎるでしょ、あなた。



とにかくアツシさんはかっこよく、お洒落で、熱かった。一瞬で虜になった。



そして、ぼくの人生を変えた一言を彼は放った。
そろそろ帰ろうかという時に、アツシさんは立ち上がり、僕の方は見ず、ぼんやり言った。



「明日から沖縄なんだよなぁ」
「何泊しよっかなぁ〜」


えっ???
今なんて?
何泊しよっかなぁ?



20歳の僕には理解不能だった。
帰る日決めないで沖縄行くの??
当時の僕にとって旅行は2泊3日くらい。
長くても修学旅行の4泊5日。



その一言で僕はどんな生き方をしたいのかがわかってしまった。



行きたい所に
行きたい時に
行きたいだけ
行きたい人と
行きたい。



自分の時間をお金に制限される事なく、自由に使いたい。僕は自由になりたかったんだ。
人は生まれつき自由。人は自由。



人は自由であるもの。
この日から僕の人生は変わった。
自由を求める人生に変わった。



音楽は続けていたけど、それよりももう自由になりたくてたまらなかった。
でも、どうしていいかわからなかったけど、とにかくアツシさんに質問をしまくった。
どうしたらそうなれるんですか?
何をしたらいいんですか?



アツシさんは優しく教えてくれた。
と言いたいところだけど、あまりにも僕のしつこいので面倒くさそうだった。
それくらい聞きまくった。



学んで学んで学んで学んで。
動いて動いて動いて動いて。

ついこの前までバンドマンだった僕は、ビジネスマンに変わった。



20歳で起業した。
それしかなかった。
沢山学んで動きたいから、睡眠時間を減らす為に、ベットは撤去しソファーだけにした。
テンションを落とさない為にカーテンは真っ赤にした。
毎日寝落ちか気絶の毎日。
この時期の流行りの曲や、テレビの情報は全くわからない。



記憶がない。



母親が後々言っていたけど、「息子が狂った」と思ったらしい。
正しいと思う。
確かに狂ってた。
夢に狂ってた。
自分の人生に夢中に狂ってた。



めちゃめちゃ馬鹿にされた。
そりゃあ終身雇用制度がまだあった時代。
働いてれば年齢と共に昇給する時代。
20歳のガキが起業して、自由になるとか言ってるわけだし。
シャフトの曲がった改造スーパーカブに、ボロボロのデニム姿。
見た目は成功しそうにもない。


そー思う。
正しい。



でも、僕は絶対に自由になれると思ってた。
毎日ブルーハーツを応援歌にしながら、折れそうな心を立て直して頑張った。
そして半年後、自分に声をかけてくれた元彼女と連絡が急に途絶えた。


○悲劇の連鎖

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実は元彼女は事故で記憶喪失になってた。
しかも、自分の親と妹。
そして、僕の事しか覚えていないと言う記憶喪失。
それ以外の記憶は無し。
生活は出来るけど、記憶はない。
今も別の人生を生きてる。



同じ時期に更に悲劇は続く。
ある日の夜、母さんから着信。
嫌な予感。
出ると母さんの声。
「翔悟(弟の名前)を迎えに行って」



僕の両親は別居をし、結果離婚していた。
僕は最初は母親と弟と母子家庭、後に父親と二人で父子家庭を経験していた。
母さんと一緒にいるはずの弟を迎えに行って??
どう言う事だ??



聞くと借金を苦に死ぬと言う。
滝野霊園の入り口にいると。
睡眠薬を大量に飲んだと言う。



母さんは死ぬらしい。
後にわかったけど、その借金も人の借金を肩代わりして逃げられた借金だった。
どうしていいかわからなかった。



とにかく電話越しの母親を説得した。
泣き叫びながら言った一言が母さんに届いた。
「母さんが死ぬなら僕も死ぬ」



多分、僕も本気だったと思う。
だって包丁を台所に取りにいこうとしてたから。
母さんは正気を取り戻し、なんとか一命を取り留めた。



このとき思った。
自分に関わる大切な人は不幸になるのかな?
もう、ネガティブにしかなれないよね。
ポジティブってなんだ?



神様がいるんなら殴りたかったよ。
マジで。



世の中は不公平だ。
僕にチャンスをくれた元彼女は記憶喪失になり、僕や弟の為に朝昼晩必死に働いて生きてきた母さんは自殺未遂。恨みたくもなるよ。



結果、母さんの借金は僕が払う事に。
母さんに背負わせれなかった。
今なら弁護士さんに相談するとか色々考えれたけど、その時の僕は無知だった。
そして力のない僕は借金を払えず、自分の名義で消費者金融でお金を借り雪だるま式に借金250万。



20歳、フジノジュンゴ。
オワタ。



毎月返しても返しても減らない借金。
払えずに街金にも借りる始末。
払えない時は容赦ない取り立てが家にくる。
ポストには取り立て業者からのメモの嵐。
ある日は玄関の扉に蹴りを入れられ足形がついてた。



待ち伏せされ玄関から出られずベランダから家を出る日々。部屋が1Fでよかった。



自由になる為に走り出した途端。
元彼女は記憶喪失。
母親は自殺未遂。
そして借金雪だるま。
韓国ドラマよりハードだぜ。



今思うと前に進んでやるしか道がなかったんだなぁ。
ガチの背水の陣。
後ろは断崖絶壁。
下がることは許されない。



この時の生活費はバイト2つ掛け持ちと、路上で弾き語りで入る小銭。
そこから使える食費はごくわずか。
1日の食事はうまい棒3本って日もザラたった。



家には借金取りが来るから、友達のウッチーの家に居候して、ご飯を食べさせてもらったり。そんな生活が1年。



そんな中でも自分のビジネスは止めなかった。
にしても、地獄ほど上手くいかない。
どーにもこーにも上手くいかない。


なんで?


努力は実らないことを知る。
今も思うけど闇雲な努力は実らない。
間違いなく実らない。
闇雲ではいけない。



ちゃんと頭を使うんだ。
無い知恵を絞りに絞って考えて動いた。
セミナーに行き、人に会い、アップデートを繰り返し。
ちゃーんと沢山傷ついてよかった。



そのお陰で1年半で自分のビジネスで食えるようになった。
借金の支払いは相変わらずきつかったけど、一人暮らしも出来る様になった。
仲間も増え、少しだけ贅沢も出来る様になった。
カップラーメンからラーメン屋さんで食べるくらいの贅沢だけど。
順調に業績も上げ、少しばかり顔も知られる様になった。



なにもかも上手くいく。
その時、付き合ってた彼女と沖縄移住を考えてた頃。



歯車がずれ始めた。


築き上げたビジネスの基盤が24歳で全て壊れた。
お金もなくなり。また、貧乏生活。



正直いまだになんであんな事になったのかハッキリ原因はわからない。
周りにいた仲間も嘘の様に離れていった。
会っても露骨に無視された。集団からの無視。

結構キツイ。



憧れてた人からの裏切りにもあった。
またもや貧乏、更に今回は人間不信も重なった。
神様とかいうやつは僕をどうしたいんだ?



○新たなスタート

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何もかも失った僕は居場所がなくなり、目標も見失い、何をしようかと思っていた。
大通り公園でぼーっとしていたら、見たこともない自転車が走ってた。
しかもお客さんを乗せて !!! なんだあれかっこいい!! あれやろー!
といってもどうしたらいいんだ?



直接あの人に聞けばいい!
ということで、その自転車のお兄さんに話しかけた。



僕「それ、どうやったらやれますか?」


という訳で次の日からチャリタクドライバー。
ちょうど無職だった友達のコウエイも道連れに。



そのかっこいい自転車はベトナムのシクロっていう自転車のタクシー。
150kgある自転車でこれがまた漕ぐのが大変。
お客さんを乗せたら200〜300kgになるやつ。



僕はその日から時計台の前にチャリタクを停めて、観光で来てるお客さんに声をかけまくった。
ようは客引きをやってた。
時計台で写真を撮ろうとしてるお客さんに声をかけて 「よかったら観光案内いかがですか?」



お客さんを乗せて、赤レンガ道庁、北大、中島公園、美味しいご飯屋さん。
チャリタクは楽しかった。
ウッチャンナンチャンの番組に出たり、ラジオに出たり、毎日いろんなお客さんと会話して楽しかった。



しかし、冬には勝てない。
冬はアジトというカフェでカフェスタッフとして働く日々。
アジトも最高に楽しかった。
働いてる人が最高だった。



アジトのオーナーのダイスケさんという新たなボスとも出会えて、沢山の学びをさせてもらった。
お店でイベントをやったりした。
クリスマスには自分で企画して孤児院にサンタさんをやりに行ったり。
孤児院へのサンタクロースはとってもいい経験だったけど、もう二度と出来ないなぁと思った…。



子供達の写真を撮らせてもらって、その写真を見てアジトスタッフに直感でメッセージを書いてもらって渡しに行ったんだけど、本当に子供達が喜んでくれたんだ。



ただ、普通の格好で写真を撮らせてもらいに孤児院に行った時に、子供達の部屋のドアを開けたら。



子供達が数人駆け寄ってきて。
子供達「誰のお父さん?」 僕「……」 何も言えなかった。



そうか、当たり前だけどこの子達はお父さんやお母さんに会えないんだ…。
とっても安易な気持ちで企画を立ち上げたことを後悔した。
当日を迎えるまで憂鬱だった。



当日は沢山子供達と遊んで喜んでもらえてよかったなぁと思ってたんだけど。
最後にさ、子供達に言われた一言で僕はまた無言になってしまった。



子供達「またきてね!!」 僕「……うん」



嘘をつけなかった。
その表情は子供達にもばれてた。
本当に申し訳なかった。
今でも後悔してる。



あの時、元気に笑顔で返事をしてあげればよかった。
あの時の僕にはそんな器はなかった。
24歳の僕にはなかったんだ。



ただの善意だけじゃ足りないんだって知った。
相手が関わること、ましてや子供が相手の時は覚悟が必要なんだ。ごめんね。



あの時5〜7歳だった、あの子達も今は成人かな。
あの時の思い出はいいものになってるかな?
そうだといいな。



○日本徒歩縦断ゴミ拾いの旅

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アジトで働いている時にてんつくまんの映画上映もやった。
アジトのみんなに沢山サポートしてもらった。
ありがとう。多分、北海道で最初だったはず。



一回やった売り上げで2回目はてんつくまん本人を読んで書き下ろしもやってもらった。
まさかこの時の書き下ろしのサポートが後に自分を助けるとは。
書き下ろしはインスピレーション詩人とも言われたりするパフォーマンス。
「あなたの目を見て直感で文章を書きます」ってやつ。



見たことある人もいるかな?
最初やってもらった時は衝撃的だった。
この人の映画を上映したいって思ったもん。



時は過ぎ、アジトでバイトを続けていた頃。
ボスのダイスケさんから3人のアジトスタッフが呼び出された。
いつも笑顔のダイスケさんが、その時はピリッとしていたのを覚えている。



ダイスケさん「そろそろ徒歩日本縦断ゴミ拾いの旅を再開しようと思っている。」
僕「へー、誰が?」
ダイスケさん「この三人の中で誰か行かないか?」
僕「!!!!えっ?!!!」


三人沈黙。


まず、みんなは徒歩日本縦断ゴミ拾いの旅ってなんだよって話だよね?
これはダイスケさんがかなり昔にやった伝説の旅。
そのまんま徒歩でゴミ拾いしながら、日本縦断する。



まぁ、死ぬよね。
ちなみにこの時に既にダイスケの周りで20人やってるんだよ。イカれてるよね。



その三人のうち、1人は経験済み。
もう一人はアジト内でお箸屋さんをやっている。
どフリーなのは僕だけ。



僕は心の中で、これは僕に行けってことだな。
そう思いすぐダイスケさんに「僕行きます!」と宣言。



今だからわかるけど。
無知と勘違いは武器だよ。
勝手に僕は思い込み行くことにした。



ところで徒歩で日本縦断って何ヶ月かかるの?
いくら必要?全くわからない。見当もつかない。
ダイスケさんに聞いても微笑むだけ。



とりあえず出発を自分の誕生日3月23日にして準備開始。まぁ、話が来たのが2月くらいだから。
もう、1ヶ月くらいしかないよね。



ここからお金を集めようと思ったけど、無知って強いね!なんとかなると思って作ったお金は5万円。
なんとかなるわけないよね!



この準備期間にアジトに来たお客さんの大槻さんも一緒に行くという。
ちなみに大槻さんは自転車で。
ちなみに大槻さんは50歳。
本当に一番イカれてるのは大槻さんだよね。



大槻さんは元音楽ライター。
先日までペニーレーン24の支配人だった方。
ちなみに尾崎豊の20歳のインタビューをとった凄い人。



僕の旅を取材したいって。
なんだかおおごとになってきた!



さらに5月3日3時5分に同時多発エコとかいうのもやるってダイスケさんは言う。
旅をしながら出会った人に5月3日3時5分にみんなで一斉にゴミを拾おうって言う企画。
イカれてるよね。



さらにさらに沖縄県の那覇の当時市長だった翁長さんから手紙を受け取って、
(翁長市長は後に沖縄県知事になられて沖縄の為に尽力され亡くなられました。ご冥福をお祈りします。)
札幌市長だった上田市長に手紙を渡す飛脚的な事もやるんだってさ。



とにかく、イカれてるよね。
そろそろみんな僕の事を虚言癖だと思い始めたかな?


いや、これ本当だからね。
びっくりしないでね。
ぶっちゃけこの後に起こる事の方がパンチ効いてるから覚悟しててね。



○沖縄上陸、いきなりピンチ

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あっという間に3月23日。沖縄上陸。
沖縄を横断し、その後、フェリーで九州に渡り日本縦断。



しかも徒歩。
そしてゴミ拾い。
沖縄に上陸し4月1日の本スタートまで遊びまくった。
沖縄にボスが借りてくれた部屋があった。
国際通りのすぐ裏のアジア感プンプンの部屋。



もう一回おさらいするけど、手持ちは5万円だよ。
覚えておいてね。



沖縄ではクラブに行きブルーハーツがかかり狂って踊り。
成人だと思ったら女子高生だったと後で知る女の子と危険な関係になりそうになり。
スタートまで付き合ってくれたダイスケさんとスクーターを2人乗りで沖縄を爆走し。



楽しすぎた。
本当に楽しすぎた。
楽しすぎた結果。



4月1日のスタート時点で手持ちは5000円。



死亡フラグが立ったよね。
でもね、これが正解なんだよ。


人生は、未来も過去もない。
今しかない。「今」しかないんだよ。



目の前の好奇心にお金を惜しんじゃいけない。
明日生きてる保証なんてないんだよ。
今。今を楽しむんだ。
っていう風に自分を騙して。
目の前の5000円という現実から目を背けたよ。



4月1日。
とうとうスタートの日。
4月1日にスタートの日を設定したのはエイプリルフールだから。
途中で挫折しても嘘でした!っていう為。



あんまり自分を追いつめちゃいけない。
ちゃんと逃げ道も作ってあげないといけない。
逃げ道の先にも新しい道はちゃんとある。
24歳の僕が沢山の挫折から学んだ。



沖縄最北端辺戸岬。
ここがスタートの場所。
この日の朝に誓ったことがある。



辺戸岬に前日入りして野宿したんだけどね。
僕は意外とデリケートだと気付かされた。
寝れなかったね。



野宿は無理。
テントは重いから寝袋しか持っていってなかった僕は決めたんだ。



この旅は野宿はしないと。
ナイーブでごめんね。
無理なもんは無理なのさ。



4月1日の朝。
辺戸岬で全裸になり写真を撮ったよ。
若気の至りって怖いよね。



さあ、徒歩日本縦断ゴミ拾いの旅スタートだ!


早速、ゴミを拾いながら歩いてみる。
あれっ…あれあれ…
ゴミが多過ぎて全然前に進めませんが…


クソ真面目にゴミを拾い続けてたら全く進めなくて大変だった。
だけど美しい景色、気持ちいい気候、これからの旅に胸が躍る。

なんてのは嘘で開始30分でもう辛かった。
景色なんてすぐ飽きる。



始めてすぐ分かった事がある。
これは多分楽しくない。
ただ辛いだけっぽい…



しかし、始めたからにはやるしかないとにかく進む。
歩くのにも慣れ、ゴミもほどほどにスルーする事を覚えた頃。
自転車に乗った男性が声をかけてきた。
ゴミを拾いながら徒歩で縦断する事を伝えたら「うちに泊まりなよ!」
と言ってくれた!!
ありがたい!!



しかし、その家は60km先…
この時には60kmを歩く事がどれだけ大変かと分かってなかったので、野宿しなくていいという喜びに包まれてた。


○詩人デビュー

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30kgのバックパックを背負って、いきなり60kmを歩くって結構無茶なレベル。
とにかく無知は武器だ。
とにかくこの日は自転車の男性の家までひたすら歩くことに。



それがまあとにかく遠い。
夜遅くになんとか自転車の男性の家に着き。
夕飯をご馳走になりシャワーを浴びさせて頂いた。
しかし、疲れ過ぎていた僕はシャワーを浴びながらお風呂場で気絶。



とにかくこの日は疲れ過ぎた。
足の裏はマメだらけまともに歩くことはもう出来ない。
みんな忘れないでね。



これ初日の話だよ。



イカれてるよね。
こんな初日だったよ。
この日に辞めてもいいレベルだった。
本当に無知でよかった。


なにより諦める事が出来ない性格でよかったよ。




そんなこんなで沖縄を横断し、那覇市役所で出発セレモニーまでやってもらったんだけどさ。
前にも言ったけど、この時点で僕の手持ちは5000円くらい。
沖縄から九州に渡るフェリーの代金は約10000円。



足りないよね!
さぁ、君ならどうする?
誰かに借りる?



僕の答えはインスピレーション詩人で稼ぐだった。



やったことはない。
なんでもやってみてから考えたらいいんだよ。
やる前にわかることなんてない。
道具を500円くらいで揃えて国際通りに座ってみた。



看板には『あなたの目を見て直感で詩を書きます』
一文字二文字じゃなくて、筆でちゃんと文章を書く。
正直、若い人がお客さんだろうし、それっぽい事かけば誤魔化せるって思ってた。



しかし、そんなに上手くはいかなかった。
最初のお客さんは、とても素敵なおばさま。
これは適当には書けない。
さぁ、どうする?



てんつくまんの真似をして、音楽をガンガン聴きながら。精神集中してからおばさまの目をみる。


勝手に筆が進む!!


書けました。
そしておばさま1000円くれました。
値段は相手が決めるシステムなので相手の気持ち次第です。
なんとその日にキッチリ10000円稼げた!
新たな能力を身につけました。



さぁ、九州へ出発だ!!



フェリーに乗り九州上陸!
ちなみに徒歩縦断だが乗り物もちょいちょい乗っている。
日本って全部歩くのは無理なので。
とりあえず九州最南端佐多岬までバスで南下。



佐多岬の手前で降りて、バスの運転手に「岬まで歩きます」って言ったら「通報する!!」って怒られた。なんで?
聞くところによると佐多岬は有料道路で徒歩での侵入は禁止らしい。


えっ?まじ?!
じゃあ、どうしたらいいの?



○はじめての遭難

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とりあえずバスを降りて徒歩縦断経験者のカネさんに電話。
僕「カネさん、どうしたらいいの?」
カネさん「6時に人がいなくなるから忍び込んだらいいよ」



まじか、とりあえず犯罪を犯すことになった。
PM6時まで近くにあったテトラポットでぼーっとし、6時に忍び込む。



歩いてすぐ真っ暗。
これ大丈夫なのか?
登れど登れどつかない。
というかゴール地点を知らない。
気づいたら漆黒の闇。



なんとか携帯のライトで夜道を照らしてひたすら歩く。
すると目の前に小さいトンネル。怖すぎる。



でも、戻るにも結構歩いて来てしまった。
とりあえずトンネルの先にある薄明かりを目指して歩くんだけど。
暗すぎて平行感覚を失うレベル。
真っ直ぐ歩いてるはずなのに壁にぶつかる。怖すぎる。



なんとかトンネルを抜けたんだけど、より漆黒の闇に。
先には分かれ道。
どっちに行けばいいのかな?



っていうか、獣の鳴き声するんだけど。
眩しい光があったので虫のように吸い寄せられて行ってみると。自動販売機。



自動販売機は神だ。
コーラを買って飲みながら途方に暮れる。



うん、そう。
遭難した。
現実かわからないくらいのパニック。
ガラケーの電波はなし。
そして、充電もなくなりグッバイ心の支え。



とにかく道にそって歩いていくとバス停が。
しかし、その横にはお地蔵さんが三体。
首から赤いのかけてるパターンのやつ。怖すぎる!



そして集落発見。
ピンポン押しまくり事情を話して泊めてもらおうとしたんだけど。
「バス停で寝たら」とか「無理」とか、助けてもらえない。閉鎖的すぎる!



でも、まぁ、そーよね。
こんな時間に人が来るはずないのに若い兄ちゃんが訪ねてくるから、相手からしたらホラーよね。



あるお宅を訪ねたら「ガレージならいいよ!」とコンセントもあるからと。ありがてぇ。



そして、おむすびまで握ってくれた。
あんな美味いおむすびは今まで食べたことなかった。



ガラケー復活。
カネさんに抗議の電話!!


僕「カネさん!6時に忍び込んだら遭難したよ!」
カネさん「淳悟!朝の6時だよ!そんな時間に忍び込んだのはじめて聞いた!」


伝説がまた一つ出来ましたとさ。



翌日、朝早く起き、泊めてくれた方にお礼し佐多岬に向けて出発!



どんどん登っていくと道のど真ん中に数えきれないほどのウンチが…


○獣との戦い

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道路に大量のうんち。
皆さんはこれをどう捉えますか?
僕はこう捉えました。


大量のおじさんが早朝に道路にうんこをしにくるしきたり。
なにか謎の風習かと思いました。
マジだからねこれ。



とりあえずうんこを避けつつひたすら登る。
すると獣が現れた。
大量の猿が出現した。
その数、100匹は超えている。
そう、さっきのうんちは猿の糞だったわけだ。



人間1人VS猿100匹強



死亡決定だ。
僕は食料持っているからね、襲われる訳だ。
まぁ、こうやって僕が暖かい部屋でぬくぬくと自伝を書いてるわけだから、僕は猿達に勝った訳だが。
ドラクエだとしたらめちゃくちゃ経験値もらったわけだよね。



さて、本当の結末は…
僕は本能的に自分を大きく見せる為に胸を張り、猿達を睨みつけながら進んで行った。
すると猿達はそんな僕を見て、恐れをなして道をあけていったとさ。



前日遭難、本日猿達との闘い。
先が思いやられる…



なんとか猿達とのバトルを終え、更に登るとやっと岬の麓に到着。階段を登って頂上へ。



えっ…なんかここめちゃくちゃ怖いんだけど。
なんか急に神社あるし。
廃屋あるしガラス割れてるし。
崖に柵はあるけど膝下くらいまでしかないし。
吹き上がる風はなんだか僕を崖に吸い込もうとする感じ。怖いんだけどー。



とりあえず頂上へ。
速攻下山。



感動もなにもありゃしない。
すると売店のおばちゃんがいて、
おばちゃん「あんたどうしたの?」 僕「若者に置き去りにされました」と、軽快に嘘をつき同情をゲット。



そこからまたバスに乗り有料道路の麓まで。
さて、また歩くか!! 少し歩いたところにあった道の駅でランチ。
その道の駅で聞かされた話しで僕は凍りつくのだった…



道の駅でランチを食べていると店員さんが話しかけてきて聞いたんだけど、佐多岬って自殺の名所らしい。
バスで頂上まで、行き帰りの人数が合わないことがよくあるらしい。
飛び降りてしまうみたい。
確かにあの岬は人を吸い込む感じはするな…怖。



気を取り直し北上。
ここから約1500km。
この時点の所持金は3000円くらい。
このままいくと野宿だし、稼がねば。



○性欲の塊

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歩いていくと露店のたこ焼き屋さん発見。
話をして隣で詩人をやらせてもらう。
たこ焼き屋さんがお友達を呼んでくれた。



来る人来る人。
見事なほどヤンキー。
ヤンキー中のヤンキー。
元いじめられっ子の僕はガクブル。
しかし、本当に最高に優しいヤンキー達で仲間を更に呼んでくれた。



その日はヤンキーの溜まり場にみんなで雑魚寝。
旅の話をしたりして楽しかった。
ここからはほぼ詩人の旅。
ゴミ拾いはしてたけど詩人をしてた記憶ばかり。



ここからは話のスピード上げていこう。
詳しく書いたら日本縦断だけで1年くらい書くのがかかりそうだから。



各地で詩人をやりながら北上。
突然だけど熊本の人吉のループ橋にて2回目の遭難。
行けると思って進んだら、完全に時間配分ミス。



このループ橋が相当怖い。
どんなのかは検索してみてほしい。
真っ暗なループ橋で、街灯が下に人が通るとつくタイプなんだけど。
これが恐ろしい。
近付く度につくんだけどさ。
毎回、街灯の下になんかいたらどうしようってなる。



流石に身の危険を感じ、初のヒッチハイク。
しかし、こんなところでヒッチハイクする人いないので、車は僕を見つける度、幽霊と間違い猛スピードで逃げていく…幽霊より幽霊っぽかったよね。



なんとかお兄さんが止まってくれて温泉に下ろしてくれた。その日の温泉は最高に気持ちよかった。



福岡の門司では沖縄で仲良くなった友達とばったり。
この時代SNSはないし、グーグルマップもないからね。
本当によく会えたよ。
会える人とはテクノロジーがなくても会えるもんなんだよね。



その友達と夕飯を食べる事になって、その友達が連れてきた友達の女の子が可愛かったから、居酒屋でおごっちゃったよね。
それくらい詩人で稼いでたんだよね。



この頃の僕の目標は、24歳の男としての性欲が溜まりに溜まって。稼いだお金で風俗に行くことでした。



これ、書かなくていいよね。
でもね、書くよ。
日本縦断中に風俗は2回行った。
熊本と広島でね。



聞いたことないよね。
日本縦断しながら風俗2回行く奴。
それほど詩人で稼いでいたんだ。



そういえば話しは飛ぶけど、広島で出会ったお姉さんが家に泊めてくれたんだけど。
風呂上りにバスタオル巻いただけで出てきて、ロフトに上がりながら話しかけてきたんだけどさ。



あれって痴女なのかな?
とりあえず気づかないふりして寝るよね。
露骨なアピールって色気がないよね。
やっぱり押し引きって大切だよね。


なんの話だ。

話は460度くらい変わるけど…


歩きながらずーっと考えてた。
今までの自分の人生を。
なんで仲間が離れていったのか。
自分は何がしたいのか。
毎日自分と話し続けてた。



更に詩人もやっていたから、言葉を沢山考えて過ごしてた。
この時の経験は本当に今も身になっている。
自分会議をする癖がとてもついた。
自分の心の声に耳を傾ける事でしか、本当にやりたいことなんかわからない。



この時僕は札幌に帰ったら、もう一度ビジネスにチャレンジして、自分の人生にリベンジするって決めてた。
絶対に成功してやるって思ってた。



あの時去っていった仲間達に、もう一度、見せたかった。やれば出来るんだってこと。
何もかも失ったって、何度でも人はチャレンジ出来るんだって姿を。



この日本縦断は自分を見つめ直す修行になった。
さっきまで風俗の話をしてたんだけどね。
はちゃめちゃだよね。



○極道の世界

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そういえば詩人のやる場所なんだけど、路上でやるからさ、違法なんだよねきっと。
警察はまだ優しいんだけど、あっちの筋の方が来た時はめちゃ怖かった。



神戸の繁華街で詩人をやってたら、速攻、あっちの筋の方がきてどやされて終わり。
シャバ代の要求もされずに、とにかくどやされて終わり。



いじめられっ子の僕はションベンちびりそうになりながら、路上で詩人をやっていた。
なんせ風俗行きたいし、なによりも野宿をしたくないんだよね。



ちなみに日本縦断で野宿したのは、沖縄初日と佐多岬の遭難の時だけ。
あとは基本はネカフェかビジネスホテル。
人の家にも泊めてもらったけど、気を使うのも使われるのも苦手で、あんまりしなかった。



詩人で稼げなかったらどうするつもりだったんだろう。
まず5万円しか持たずに日本縦断しようとしてるんだからさ。



でも、5万円しかなかったから。
沖縄の時点でお金を使い切ったから、詩人をやろうって思ったんだよね。
準備がしっかり出来てからやろうとしてたら人生あっという間に時間が過ぎてしまう。
鳥肌が立つくらいのやりたいことがあったら、やりながら準備すればいいんだよね。



計画通りに行くことなんてないし、やっていくと状況も変わる。
準備って言いながらさ、ビビってんだろ?って思っちゃう。



失敗はネタにしかならない。
失敗のネタもない男なんて、なんの魅力も感じない。
成功し続けるってさ、別の見方をすれば、出来そうなことばっかりやってるんだろって思う。
出来そうかどうか別として、やりたい事に立ち向かったら、失敗、挫折、するに決まってる。



とにかくさ、そこそこの人生なんてクソくらえ。
成功するなら大成功。
失敗するなら大失敗。
半端が一番かっこ悪い。
今もあの時もこれは変わってない。


さっきまで風俗の話をしてた男ですが、なにか?



○約束の日

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東京に到着し、まずやった事は、元々の目的の5月3日、3時5分の同時多発エコをやること。
旅の途中知り合った人達にビラを配り、趣旨を説明していたので、僕もしっかり5月3日3時5分に都庁の前でゴミ拾い。この頃にもう旅の趣旨は僕の中で変わっていた。既に詩人の旅。



日本海側の街をメインにドンドン歩いて北上した。



順調に足を進め横浜へ。
横浜では詩人が大フィーバーした。



ヤ○ザやホームレスと仲良くなり、シャバ代を払わず許可を得て、横浜駅前で詩人をやらせてもらった。
ちなみに駅前にいるホームレスの中にはヤ○ザに雇われてる人達がいる。
売春婦や路上でお金を稼ぐ監視の為に。
だからホームレスだと言って邪険に扱うと痛い目みるよ。豆知識でした。



横浜は結構滞在した。
なんせ稼げる。
最高記録は2時間で5万円、平均でも1日3万円は稼げてた。



東京に友達もいたから泊めてもらったり。
代々木公園で早朝バスケをみんなでやったり。
レゲエフェスに参加したり。
ヘアモデルをやって髪の毛が編み込みのブレードとドレッドになって雑誌に掲載されたり。
年齢を偽った未成年やとんでもなくスケベな女性とあんなことこんなことしたり。



とにかく楽しかった。
やっぱり思う。
楽しかった思い出は素敵なんだけど、自分を成長させてはくれない。
過酷な環境に身を置き、日々挑戦し、挫折しボコボコにされないと、自分を成長させる事は出来ないと。



楽しかった東京を背に更に北上。
ここからの思い出はあまりない。



もう、この頃には北海道に帰ってからのチャレンジに胸が踊っていた。
北関東、東北を抜け、北海道に上陸。一気に駆け抜けた。
そして、最終地点稚内に向かう前に、札幌に寄り僕を送り出してくれたアジトへ。



そこで僕を待っていたのは温かい仲間達ではなく。

辛い出来事だった。また、仲間を失った。



○帰還、0から

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アジトに戻った僕を待っていた人は誰もいなかった。
アジトに着いてみんなにただいまを伝えたけど、なんかみんなよそよそしい。



そして、ダイスケさんがやってきて一言。
ダイスケさん「俺は寂しかったぞ」
ダイスケさんは怒っていた。
それに同調するようにみんなも話しかけて来なかった。
連絡をあまりしなかった事が原因らしい。



本当の理由は今もわからない。
それっきりアジトには行ってない。
足早にアジトを出て泣いた。
また、仲間を失った。



僕は人の気持ちがわからないらしい。
自分では考えているつもりだったけど。
夢中になると周りが見えなくなる。


それが悪い事だとは思わないけど。
多分、あの頃の僕は極端だったんだと思う。



そのまま北上し稚内宗谷岬でゴールを迎えた。
旅で得たものはとても大きかったけど、帰る場所を失った。
札幌に戻り実家に戻らず、友達の家に居候し、詩人をやってその日暮しを繰り返していた。



そんな時、ビジネスの先輩のお祝いがあり行きづらかったが行った。
実は旅の前にビジネスが壊れた時、お金のトラブルがあって、誰にも顔向け出来る状態じゃなかった。
だけど、その先輩のお祝いだけは行きたくて…



コソコソしながらお祝い会場へ。
その会場で後に奥さんになる人と再開した。
僕が仲間を失った時にも、僕の事を非難する人がほとんどの中、僕を肯定してくれた、数少ない人の1人。



そして、すぐに恋に落ちた。
しかし、その時の僕はイカれてた。
居候してたのは別の女の子の家だった。



普通に考えて嫌だよね。
彼女出来たのに女の子と一緒に住んでいる彼氏。
今考えるとヤバいやつだった。笑



少しして彼女と住み出したんだけど、昼は路上で詩人をやって、夜は朝までゲームをし続けてた。
家にお金も入れず…



つまり、ヒモだった。
ちゃんとしたヒモ。



旅後って普通の生活に戻るのが凄く大変で、という言い訳はしておく。本当に申し訳ありません!



それでもおもしろおかしく暮らしていたんだけど、同棲1年して妊娠、そして結婚。
路上詩人と結婚させるわけに行かないので、とりあえずバイトに行くんだけど、本当にクソみたいな月給だった。



また、就職もせずバイトを転々としてた。
流石に奥さんのご両親の手前、24歳でクリーニング屋さんに就職。ちなみにこれが初就職。



ほんとさ、つくづく思うけどクズだよね。
こんな僕と結婚してくれた奥さんには頭が上がらない。



でも、この時も僕はビジネスへの再起をはかっていた。
ひたすら勉強していた。
次は負けないための情報を。
ひたすらトライアンドエラーを繰り返してた。



そして、もう一度チャレンジを。



○再チャレンジ

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心機一転、0からのスタート!



早速、大通りにオフィスを借りた。
オフィスと言っても風呂トイレ共用の、3畳1間のゴキブリが出る和室の部屋。
押し入れには前の住人が大量に置いていった、アダルトビデオのVHS。
なんでもいいからオフィスが欲しかった。



この場所で仲間とひたすら学び続けた。
時にはゲームをして終わる日もあったけど、この日々は今でも原点だと思う。
月日は流れ、コツコツやって1年で自分のビジネスで暮らせる様になった。



元の結果より更に上の結果に。
この頃から情報収集の場は東京になった。
月に一回東京に学びに行き吸収。
東京の情報を仕入れ札幌で実践する。



周りの人と同じ事はしない。
周りの人と同じ事をしていたら、最初はいいけど時間が経てば飽和して上手くいかなくなるのは当たり前。
マーケティングとして周りが理解できなくても、少し先のことやる。
頭では理解出来るけど、行動が追いつかないくらいの少し先の考え方。
それがわかる人と動けばいい。



わかるように何度も伝える。
ある意味、謎の集団になる。
外野に疑問を持たせる。
外野からすると気にはなるけど理解は出来ない。



外野にわかるくらい上手くいき出して周りが真似する頃には、また新たな手を打つ。
これの繰り返しで勝負する。



この頃に月一で場所を借りて、一見さんお断りのバーを始めた。
そして、経済セミナーを始め、セミナー講師も始めた。



周りの人には遊んでるだけとか言われたけど、海外にも行き始め世界が広がった。
娘も3人になり三姉妹のパパ。
バーも人が入り切らなく月二回に。
それでも入りきれなくなりラウンジを借りてイベントをやり始めた。
平日の夜に100人越えのイベントが出来る様になった。



経済セミナーも月二回に。
セミナーの売り上げだけで10万以上になる事もあった。



やっと報われた。
順風満帆な日々。
幸せな日々。



でも、これでは飽き足らないのが僕の性格。
この頃には「死んだらごめんツアー」というイベントをやり始めた。
死ぬかもしれないけどやってみたい事を仲間とやり始めた。
まだ、流行る前のラフティングツアー、サバゲー。
とにかく沢山やってきた。



そして、何より楽しかったのが「サンタジャック」
このイベントは本当にハッピーなイベントだった。



○サンタジャック

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サンタジャックってイベントは少し説明が必要なイベント。
12/25のクリスマス当日の朝6:30に地下鉄宮の沢駅に30人くらいで集合。



参加条件はサンタの仮装。
そこから地下鉄に乗り込み一両ジャック。
一車両じゃないよ一両ね。



そこからは特に動きなし。
他の乗客はチラチラ見てる。
微笑んでる人もいる。



話しかけてくれたら趣旨説明をしてオッケー。
とにかく騒いだりこちらから話かけるのは禁止。
朝からテンションの高いサンタがいたらイラつく人もいるでしょ?



大通り駅まで行きさらに30人くらいと合流。
地下歩行空間をみんなで歩き札幌駅のスタバをジャック。えっ?なんの為にやってるの?って。



これはね、12/25にサンタクロースからプレゼントをもらった子供達が喜ぶ中、働くパパやママは仕事に行かなければならない。
「一緒にいたかったなぁ」と思ってるパパやママの前に、一両パンパンに詰まったサンタクロース達が目に入る。
特に騒ぐわけでもなくただサンタクロース達がいる。



「あれなんだ?」
会社に着き同僚と話す。



Aさん「今日なんか大量のサンタいたんだけど」
Bさん「マジで?なんで?」
Aさん「わかんない」
AさんBさん「笑」



こんな些細な笑いのネタになったら良いなぁと。
少しでも明るい気持ちになってれたらという思いで始めたイベント。



これがサンタジャック。
よくわかんないでしょ?
自分達がやった事で見知らぬ誰かが少しでも笑顔になったら嬉しい、それだけのイベント。
こういうのあってもいいよね。



ちなみにイベントは色んな事をやったなぁ。
少し時間軸おかしくなるけど話すね。



中村陽太(通称ようちゃん)という友達がいて。
彼は僕にとって恩人だったから誕生日は毎回気合を入れて、あれやこれややってたんだけどね。
その中で何個か紹介するね。



まずはようちゃんの誕生日を祝う為に、勝手にフルマラソン。
小樽水族館から円山クラスまで勝手にフルマラソンをやったんだ。
撮影班の恭介に動画撮影と編集をお願いしてね。
まったくトレーニングせずに走ったからさ8時間かかったよ。フルマラソンって大変だね。



その動画をようちゃんに見せたら、そこにいた友達は笑ってたけど。
ようちゃんは複雑そうな顔してたよね。
そうだよね、友達が苦しんで祝うって中々難しい感情になるよね。
まだまだ、人の気持ちがわからなかった時代の話さ。



○悪ふざけ

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あとは中村教っていう新興宗教を勝手に作って、フェイクドキュメンタリーを撮ったりした。
ようちゃんと関わると人生楽しくなっておかしな人になるっていう宗教。
信者の集いに隠し撮り風の潜入映像撮ってみたり。



最後には中村教の儀式として、真昼間の大通り公園の噴水にみんなで侵入して、前回で水浸しになってみたり、ガチで知らないお母さんに怒られてみたり。
それを見せたようちゃんの顔も複雑そうな顔だったよ。



勝手に宗教の教祖にされて壮大にいじられるわけだから難しい感情になるよね。
まだまだ、人の気持ちがわからなかった時代の話さ。



そういえば映画にも出たよ。
急過ぎるよね。
今、思い出したよ。



札幌映画祭の舞台挨拶も経験したよ。
もちろん役者としてね。元カノから連絡がきて。


元カノ「淳悟君の周りにいい役者さんいませんか?」
僕「俺くらいかな〜」
元カノ「えっ!ほんと!!」



という訳で出る事になったよ。
僕はジョークで言ったんだけどね。
これ、本当の話だからね。



元カノが女優さんなのは知ってたけど。
なんかアマチュアかなんかの映画だと思って気軽に引き受けたけどさ。監督に会ってみたらガチな映画だった。



「まぶしい嘘」という作品で映画祭に出展するようなちゃんとした映画。
主演の俳優さんがワハハ本舗の方で、もうロケ日も決まってるらしい。
それなのに1人役者さんが急遽出れなくなって代役を探してたらしい。
3日間だけ拘束っていうし、おもしろそうだから受けてみたんだけど。


実際は3か月間拘束されたよ。
もちろんノーギャラさ。



これは最初からわかってたし最高に面白かった経験だから。
お金払ってもやりたいくらいの経験になったけどね。

とにかくこの映画出演の経験が最高だった。



ロケ地は夏の小樽。
僕の役所は主演男優、主演女優につぐ三番手。
待って…まさかの大役だよね。



セリフバリバリあるじゃん。
しかも青年画家の役。
映画の中で使う青年が描いた絵も描いて欲しいっていうんだよ。
クランクインまで一ヶ月。
(クランクインってあえて言ってるんだよ、人生でクランクインって言ってみたいでしょ)



通常役作りには人によるみたいだけど三ヶ月から一年はかかるらしい。
ちなみに僕の役者経験を伝えておくね。
小学六年生の時にやった「アイウエオリババ」の語り手3っていうちょい役中のちょい役のみ。



そこから急に映画祭出展レベルの映画だからさ、照れるよね。
最初のシーンでとりあえず8回同じNGを出して。
めちゃくちゃ年下の助監督に怒られたよ。



撮影中は役者以外にもレフ板もったりADみたいな事もやらせてもらって楽しかった。
映画に参加しながら監督と沢山話をしてさ、思ったんだ。



俺役者向いてねぇわ。
照れてしまって演技になりません。
だけどね、監督は向いてるってわかったんだよね。
だから、二本映画を撮ったよ。
また、急な発表だよね。



この自主映画の話はまた今度ね。
「まぶしい嘘」に話を戻すね。
とにかく毎日汗だくになりながら撮影に挑んだよ。
今思い出しても素敵な日々だった。



そして、三ヶ月後クランクアップ。
(クランクアップってあえて言ってるんだよ、人生でクランクアップって言ってみたいでしょ)
結構、感動した。



なんだけどこの映画が実際公開されたのはこの三年後なんだ。
撮ったはいいんだけど監督がこだわりまくってそうなったみたい。



新しい事に挑戦すると新しい能力が生まれる。
チャレンジし続ける事が自分にとっての成功。
お金、地位に安住する人生なんてクソくらえ。



実はこのあと舞台に出る事になったんだ。



○舞台デビューと脳梗塞

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友人の紹介で舞台役者をやっているモエギを紹介してもらった。
モエギが舞台に出るというので友達を沢山連れて観に行った。
その劇団は「プラズマニア」という劇団、お芝居やダンスが混じったものらしい。
北海道ではお馴染みで今や全国区のTEAM NACSの演出助手をしていた。



谷口健太郎という人が団長の劇団。
観て僕は感動しまくった。



迫りくる臨場感。
絶妙な曲合わせ。
熱さ。



初舞台鑑賞だったけどかなり感動した。
ちょうどそんな時期に、映画「まぶしい嘘」が完成し、監督の長沼りなちゃんが色んな所で予告編を見せまくってた。



ある日、モエギからこんな話が。



モエギ「次のプラズマニアの公演に出ませんか?」
僕「ん?役者として?」
モエギ「そう!」



聞けば長沼りなちゃんがプラズマニアの団長谷口健太郎に予告を見せたらしく、淳悟君、次の公演出れないかなぁとなったらしい。



映画は編集あったりして誤魔化してもらえるかもしれないけど、舞台って!生だよ!
しかも5回公演、稽古めっちゃある。



選択肢は二つ。
断って観に行くね!という程のいい返事。
出してください!という無謀な返事。



選択肢が二つある時は、出来るか出来ないかじゃなく、面白そうか面白くなさそうか。
という訳で快諾。
そして舞台出演に向けて稽古の日々に突入。



これが毎日なのね、当たり前だけど。
昼の仕事して、自分のビジネスもやって、舞台の稽古もしててんやわんや。
ダンスパートあるんだけどさ、まあ、自分のリズム感の無さが神。苦戦しまくったよ。



でも、必死にやってるみんなを見てると、こういうのっていいなぁって思った。
大変だけどね!!



しかも、舞台の始まりの最初の台詞は僕かららしい。

おい!待て!

映画は出た事あるけどさ。
その時も出来なくて10代のスタッフに死ぬほど叱られてるんだよこっちは。
そんなプレッシャー与えないでほしい。



でも、二つの選択肢があったら、難しい道を選ぶのが男。
だからありがたく受けさせて頂いた。



この頃に嬉しい事があって。
実は僕の両親は離婚してたんだけど、不思議なご縁で10数年後復縁したって言う不思議な二人。



きっかけは僕の結婚式で再会した事。
二人にとっての孫も産まれたのも良かったんだろうなぁ。
家に帰ったら、親父と母さんが娘と遊んでるの見た時は夢かと思ったよ。

両親の復縁は夢だったから本当に嬉しかった。




連日の厳しくも楽しい稽古を過ごし、本番まであと2週間というタイミングで、父親から一本の連絡。
「母さんが倒れた、ICUにいる」


脳梗塞だった。



母さんが親父と一緒に住み直してからたった5日目の事。
短い再新婚生活の終わりだった。
ICUにいる母さんはもう管だらけで、会話が出来ない状態。死ぬんだろうなぁって思った。



人目をはばからず泣いた。
あんな苦労してきた母さん。
他人の借金で離婚し。
借金まみれになり。
自殺未遂までし。



やっと親父と元通りになれた矢先。
これからありふれた夫婦の幸せを掴もうとした時。


神様はいないよ。


そう思った。
僕はすぐ昼の仕事を辞めた。



自分のビジネスで食えるところには来てたし、会社には未練なんて微塵もなかった。
なによりも大切な人がピンチの時に会社に行くとか馬鹿だろ?
生活の為には働かないとって言う人もいるだろうけど、大切な人との時間は明日終わるかもしれないんだ。



それから毎日昼間は、母さんに付きっきりで過ごした。
東京の弟も帰省させた。
看病っていっても手を握り続けるしかないんだけど。



舞台は団長の谷口健太郎にだけ事情を伝えた。
他の人には言わないでもらった。
舞台の覇気を下げたくなかった。



昼は病院、夜は舞台の稽古、自分のビジネスもやりながら。そんな毎日だった。



○水子供養

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母さんは本来口の中で死滅する菌が、何故か心臓まで到達し心不全にもなっていた。



脳梗塞と心不全、なかなかのダブルパンチ。
病院の先生も不思議がっていたけど、抗生物質がなにも効かなかったらしい。
詳しい事はわからないけどとにかく効かないらしい。



こちらは素人、なす術がない。
色んな人が助けようとしてくれて、レイキを遠隔でやってくれたり、本当にありがたかった。



そんな中、僕を映画に誘ってくれた元カノから連絡が来た。
凄いお坊さんがいるから行ってみたら?
こうなるともう神頼み。
なんでもいいから母さんを助けて欲しかった。



紹介されたお寺に行きお話を聞いてみた。
その日お坊さんはいなくて、代理のおばちゃんに状況を説明。そしたら遠隔で治療してくれると言う。



ちょっと待て。
なんだそのファンタジスタ。
そんなんで良くなったら医者いらないだろ!!
と正直思った。



半信半疑、いや、全疑。
あんまり人には言ってないけど、僕は昔どっぷりスピリチュアルの世界にいた事がある。
アジトによくそういう人が出入りしてたから、自然とそうなった。



ハワイの江原さんみたいな人に見出され、ある女性に第三の眼を開眼された経験があってね、何年間か人の顔の横に前世の顔が見えてる時があったのね。
山籠りの修行をして力を身につけることを勧められたけど、流石に面倒臭くて行かなかった。



母親もばあちゃんも普段から霊が見えてる人だったから、僕にもその力はあるらしい。
ただ、霊が普段から見えてたら気が散りそうだし、霊から頼られても人見知り発揮して疲れそうだから、修行は遠慮した。
そんなこんなで割と不思議なものには寛容なんだけど。



話を戻そう。
遠隔で治療って。
後日、代理の方から連絡が来て。



代理の方「お母さん、水子さんいるでしょ?」
僕「はい」
代理の方「供養したらお母さんよくなるよ、お一人につき10万円かかります」



僕には弟の他に色んな事情で産まれて来れなかった兄弟が3人いる。
なので水子供養も三人分、30万円。
藁にもすがる思いで30万円払ったよ。
騙されてても助かるなら騙されたい、そんな思いだった。



水子供養をしてもらってすぐ、嘘のように抗生物質が効き出して。
心不全は手術出来るところまで改善された。



これね、本当の話ね。
信じるか信じないかはあなた次第です。



心不全の手術も無事終わり、脳梗塞は完全に進行し、右の脳はもう終了のお知らせ。
もう、元には戻らない。
ただ、生きてるだけよかった。



この時の思い出といえば、母さんが心臓を1時間半取り出して手術をしてる時に、病院のロビーで弟と二人でピザのデリバリーをして二人で食べた思い出。
僕たち家族は結構肝座ってるんだ。
僕も弟もそれくらい過酷な幼少期を過ごしてたから、心臓に剛毛生えてるんだよね。



兎にも角にも生きててよかった。
ただ、本当の地獄はここから始まったんだよね。
今世は簡単には生きさせてくれないらしい。



○舞台本番、映画監督デビュー

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母さんの手術はなんとか成功した。
だけどここからが地獄のリハビリ。
そして、意識の戻った母さんに伝えなければ行けない事実。


脳梗塞で左半身が麻痺している事を。
これが一番キツイよね。



運転が大好きで動き回るのが大好きな母さんが、もう自由に動き回れない事を伝えなければいけない。
いつ言おうか迷ってたら、担当医がつらーっと言ったよね。
おい!って心の中で突っ込んだよ。
お前が言うんかい!!



兎にも角にも母さんは現実を受け入れなければいけなかった。
リハビリには付き合ったけど、やっぱり見守る事しか出来ない。無力だなぁって思ったよ。



夜は変わらず舞台の稽古。
昼は病院で付き添い。
夜は稽古。
合間でビジネス。
覚えること沢山でパニックの毎日。



幸いだったのが母さんがリハビリにとても前向きだったこと。
いつかまた車を運転するってやる気になってた。
ただ、それは叶わない事を知っていた僕は、母が頑張れば頑張るほど辛くなってたんだよね。



この気持ちわかるかな?
希望は大切だ。
だけど、希望にも種類がある。
持ってはいけない希望もあるんだと思う。



話は変わって舞台も本番へ。
いやー、舞台って面白いね。
やってみてわかるけど、目の前にお客さんがいてリアクションが直接もらえるって、あんなに感動があるんだと思った。やる機会があったら皆さんも是非!



映画に出て、舞台に出て思ったこと。
自分は監督向きだと言うこと。
という訳で映画を撮る事にした。



急だよね。
でも、僕の人生は思いついたらすぐ行動なんだ。
やりたくなったらすぐ動く。
準備とか長々やってたら死んでしまう、と本当に思ってる。



映画は今まで2本撮ったよ。
酷いのを2本撮ったよ。
ショートフィルムを2本。
地球があと5分で終わるというコメディーと、ふんどしボーイズというアイドルグループのフェイクドキュメンタリー。



YouTubeにあげてるよ。
見つけられるもんなら見つけてごらん。
なかなかのマニア作だよ。



これで映画監督の肩書もゲット。
舞台役者、映画役者、映画監督。
肩書だけだとなかなかでしょ?



話は戻るけど。
母さんのリハビリは2年続いてやっと家に戻ってきたよ。
ただ、もう半分脳味噌に血が通ってないからさ。
別人なんだよね。



泣いたら泣きっぱなし、笑ったら笑いっぱなし。
妄想もひどくなり、虚言するようになったりさ。
悲しかったよ、ほんとね。
何もしてあげれなかった自分の弱さを恨んだよ。



親孝行したい時には親はなしって言うけどさ、本当だよ。
親孝行したいって言ってても、やってないならしたくない人と結果は一緒なんだ。



少し、暗い話が続いたね。
ここから多分少し明るくなるから楽しみにしててね。
これが僕のリアルなんだ。



○イベンター、セミナー講師、DJデビュー

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舞台、映画。


そして母さんも退院して、やっと落ち着いた人生になってきた。
僕も30歳を過ぎ大人になると思っていたら、全くなっていなかった。



好奇心が止まらない。
挑戦欲求が止まらない。
今も続けているライフワークにも、この頃出会った。



一つはイベンター。
最初は先輩のオフィスにバースペースがあったので、そこを月に1回だけ借りて、シークレットバーという今考えると恥ずかしい名前でスタート。
最初は10〜20名くらいのお客さんだったんだけど、シークレットにするとみんな来たいみたいで気付けば50人くらい来てた。



入りきれなくて月2回にしたんだけどそれでもパンパンになるから、友人の紹介でFELIZというラウンジを借りて100人規模のイベントに変更。
札幌で平日の夜にやるイベントとしては1、2位を争うイベントになっていた。



イベント名は「Kudetor(クーデター)」
由来はバリ島にKu de taという素敵なお店があって、そこの名前の響きとクーデター(国家に対する一撃)を起こすって言う大袈裟な意味を掛け合わせて付けた名前。
毎月、パフォーマーやゲストを呼び毎月大盛り上がりだった。



フリースタイルフットボーラー、フリースタイルバスケットボーラー、アフロンゲ丸山さん、盛合でぇすけさん、タヒチアンダンス、ファイヤーダンス、ラッパーDaCow、レゲエSPYCE etc. 沢山の方々に来て頂いた。
周りの助けもあって最高のイベントだった。



そのイベントで生まれたアイドル「Fundoshi boys」
細マッチョのイケメン3人が、ふんどし姿でテキーラを配ったりダンスをしたり、際どい組体操をやったりする。僕がプロデュースしたメンズアイドルグループ。



Fundoshi boysは大人気だった。
僕と先輩で主催したクラブイベントでは、moleというクラブで300人以上の前で、ふんどし組体操を披露したりしてた。あれは今見ても最高だった。



この頃DJもやり始めたりして、どんどんチャラくなっていった。
はい、30歳越えてチャラくなり始めるパターン。
一番危ない奴だよね。



DJは一度、先輩のご好意でZepp札幌の舞台で少しだけやらせてもらったこともある。
本当に少しだけね。



1000人以上の人の前でプレイするのはいい思い出になった。
ちなみにDJの技術はうんこレベルだから期待しないでね。
イベントもFELIZでのKudetorに始まりValorでのViva la vida、RivieraでのTHE DAY、
HAKATAでのHideout、色んなところで年単位でやらせてもらった。



本当に会場のスタッフの方やイベントスタッフ、来て頂いた方には感謝しかない。
イベントをやり始めたと同時に、経済セミナーもやり始めた。
エルプラザの大会議室月2回、月で150人くらいの人に来て頂いた。



イベントもセミナーもとても楽しかったんだけど、少しだけ疑問を抱えるようになっていた。
両方、収益が上がるからありがたいんだけど、僕は別にイベンターやセミナー講師として生活したい訳じゃなかった。
しかし、この二つでも生計を立てられるくらいの規模になっていた。



これじゃダメだと思った。
僕は自由になりたい。
自由になる為には自分のビジネスをもっと伸ばしていく必要がある。


という訳で、イベントもセミナーも頻度と規模を縮小させた。
長く続ける難しさもあったのは本音。
なによりも自分自身のマンネリ化には勝てなかった。



心から楽しめなくなったら辞めないといけない。
時間は限られている。
いつ死ぬかわからないのが生物。
本当にやりたい事はなんなのか。
そんな事を真剣に考え始めた頃だった。



30代中盤に差し掛かり、残りの人生を真剣に考えるようになった。



○再チャレンジ、そして地獄

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30代後半になり自分のビジネスの収入をあげようとチャレンジし直した。
やってはいたけど、現状維持の動きでしかなかった。
僕自身、正直相当ハッピーに生きてたから目指さなくても楽しく暮らせた。



チャレンジすると失敗もある。
現状の幸せを手放す事になるかもしれない。
だから踏み出せなかった。
そんな中、尊敬する人が目指すとコミットした。


僕の中で何かが動いた。



その人がチャレンジする前の年に自分自身で結果を出して、北海道全体を良い流れにしたかった。
人思考が全開に出た。
人のためなら頑張れる。
人思考の数値が異常に高い僕は、コミットした。



やる。
やる。
やる。



そして目指し出した。
そこからはもう動きに動きまくった。
一日8アポは当たり前。
自分と向き合う時間も必要だった。



目指す時に自分が何処に向かっているかわからなくなるのが、一番危ないから。
約一年全てを目標に捧げた。
トラブルもあったし、反感も食らった。
側から見てたらわからないことだろうけど、傷付きまくった日々だった。



それ以上に夢中だった。
起こる出来事全てに感謝出来た。
そして、成し遂げた。
最高の瞬間だった。
仲間も増え、慕ってくれる人、褒めてくれる人も沢山いた。



しかし、その後の結果はトラブルで全てが崩れた。
ビジネスが出来ない日々に陥った。
詳しい事は文章だとなかなか伝える事は難しいけど、とにかく僕の配慮不足、力不足だったと思う。



今思い返しても心がギュッとなる。
この時は泣いた。
ダメになるのがわかった時は、雪が降る中泣きながら一時間以上歩いた。
こんな時も弱音を吐くことが僕は出来なかった。



強がってたんだよ。
弱いところを見られたくなかった。
とことん弱すぎる僕だった。



収入も四ヶ月止まった。
収入は複数あったけど、メインの収入が四ヶ月止まった。
奥さんと娘三人、生活費がなくなった。
七年ぶりに雇われたのもこの時だった。
毎月20万円生活費が足りない時期が半年間続いた。
どうやって補ったのかわからないくらい、夢中でお金を稼いだ。



この時期に頭がおかしくなる事もなく、病気にもならなかった丈夫な身体をくれた両親には本当に感謝してる。
辛い日々にも慣れ始めた頃、信じていた仲間から裏切りにあった。
これが今までで一番辛かった事かもしれない。



でも、裏切ったと表現したけど、きっと僕がそうさせてしまったんだと思う。
そんな事をする奴じゃなかったから。



幸せになってほしい。
本当に幸せになってほしい。
ごめんな、あんな事させて。
信じていた相手だから許せなかったんだろう。
本当にごめんな。



全て僕の至らなさが招いたもの。
不幸も幸福も僕は噛み締める。
僕の人生だから、誰にも奪わせない。



だけど、やっぱり家族に大変な思いをさせた事は申し訳ないと今でも思い続けてる。
お金は大変だったけど、不思議と毎日は幸せだった。
その理由は、家族揃って毎日家族と夕飯を食べられていたから。
目指していた時は、家族と夕飯を食べれたのは年に三回くらいだった。



僕が望んでいたのは家族と過ごす時間を沢山持つ事だった。
そんな大切な事に気付いたのはこの時だった。
これに気付けた事は、僕の人生の大きな軸になった。



僕は家族と過ごしたかったんだ、愛する家族と。
家族を養うために必死でお金を稼いだ。
だけど幸せは目の前にあったんだ。



そんな日々の中、お金の問題は続いてた。
ある日給料日の次の日に支払いが溜まっていたのですべて支払いをして、手元に数百円しかなくなってた。
わかっていたのに、僕は限界を迎えて、壊れた。


そう、壊れたんだ。


あたまがおかしくなったんだ。
生まれて初めて発狂した。
死にたいって思った。
何もかもから逃げたいと思った。
僕なんか必要ないって思った。
僕は無意味な人間だって思った。



実は死ねたらどれだけ楽だろうと日々考えていたんだけど、この日に全てが壊れた。
いまだになんであの日だったのかわからないけど、きっと、積もり積もってたんだと思う。
僕が僕らしくあるために気丈に振る舞っていた、けど限界が来ていたみたいだ。



これを読んでる人は地獄の始まりに見えるかもしれないけど。安心して、ここからとても良くなるから。



この出来事で、僕たち家族の絆は深まったんだ。
カッコつけたがりの僕がはじめて、ありのままの自分になれた日でもあった
ここから僕達家族の再建が始まった。



○本当の人生の始まり

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壊れた僕を見て、奥さんが求人情報をネットで見るようになった。
結婚してから12年くらい専業主婦だった奥さん。


「どうしたの?」と僕が聞くと「ママも頑張る。」


泣けた。泣いたよ。



頑張ろうとしてくれている奥さんにまた惚れた。
働いてくれるのは確かに助かる。
それがパートだとしても、その気持ちが嬉しい。
力になろうとしてくれてる事が嬉しかった。



子育ても頑張ってくれて、家事も頑張ってくれて、120点満点の奥さん。
更に頑張ろうとしてくれている。
奥さんが専業主婦じゃなくなる事は悔しい思いもあったけど、僕が弱いところを出した時に奥さんは支えてくれようとしてくれた。



こんな幸せな事ない。
家族の絆が強まった。



娘達にも我が家の経済状況を話した。正直に話した。
そしてみんなで笑った。
ここで笑える家族って凄いなぁって、客観的に思った。
僕達は乗り越えられる。



この頃から僕は収入源を増やす事にした。
まだまだ、サボってた事に気付く。
まず最初に飲食店をオープンした。



土日祝日限定のパフェ屋さん(ちなみに今はパキスタンカレーのお店に変わっている。)
人材派遣の仲介。不動産の仲介。
細々入れると15個の収入源になった。



今でも家族全員で戦ってる。
家族が一つになっている。
子供達はスクスク育ち、夫婦も仲良く過ごしてる。
稼ぎはまだまだ足りない。
支出もピークよりはかなり減った。
だけど全然楽じゃない。



でも、人生で一番幸せだと思える。
幸せは良好な人間関係で決まる。
人間関係は寿命を15年伸ばすってデータもある。


幸せは伸び率。
ここから伸びていくと思うと幸せだ。
毎日勉強して、未来の為に行動し続けている。



ここからだ。
何度でも何度でも。
遠回りの40年だけど。
大切なものに気付くには、大切な40年間だったと思う。



お金も大切。
時間も大切。
健康ももちろん大切だ。
でも、なによりも大切なのは、


愛だ。
愛が全てだ。
自伝の締めくくりが『愛』



くさいでしょ?
でも、僕が行き着いたのは、愛だった。



愛があれば、ピンチも乗り越えられる。
愛があれば、貧乏も乗り越えられる。
愛があれば、生きていける。


愛があれば。



○終わりに

長々読んで頂きありがとうございました。
まだ、僕の人生は第一章くらい。
序章に過ぎない。



ヒーローズジャーニーだとしたら、まだまだ始まりの時。
ワンピースだと、海軍にメチャくそやられたルフィくらいの時。
ドラゴンボールだと、ラディッツを道連れに魔観光殺法で殺されたくらいの時。



ほら、まだまだ物語は続くでしょ?
N字曲線の底辺くらい。
ここまでの学びをこれから活かしていく。
なによりも大切な、愛を手に入れた状態で。



無敵だ。
幸せはいつも側にある。
幸せは手に入れるものじゃなく、幸せは気付くもの。



人は生まれただけで幸せだ。
生きているだけで幸せなんだ。
当たり前の事ほど、人生で一番大切なものだったりする。



これからの物語は、また、いつか書こうと思う。
これまでの数倍面白い人生になると思う。
愛を手に入れてるんだから、もう、怖いものはない。



愛が全て。



○最後まで読んで頂きありがとうございます!

拙い文章、誤字脱字もチェックしたけど沢山あると思います。許して。


最後まで読んで頂きありがとうございます!

ありがとうございました!



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