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『高瀬舟』~知足の視点から~

森鴎外の小説『高瀬舟』を初めて読んだのは私が中学生の頃、国語の教科書に載っていた。そのころ、この小説は「安楽死」について書かれている作品なのだと漠然と思っていた。しかし、大学三年生になった今改めて読んでみると、「安楽死」という主題の他に、「知足」というものも作品の中で大きな意味を持っていると感じた。

今回はそんな「知足」について着目した批評をしていく。

「知足」とは、”足ることを知る”ということ。
老子の「知足者富(足るを知る者は富む)」に由来する言葉である。

庄兵衛は、自分の暮らしを立てることで手一杯な生活に満足を覚えたことはほとんど無い。
庄兵衛は人の欲には際限がなく、踏み止まることが容易ではないと考えている。

一方喜助はというと、幼少時に両親を亡くし、住所不定でその日暮らしをしていた。
稼いだ金も右から左へとなくなっていく。

そんな彼にしてみれば、たとえ島流しという形であったとしても、自分がやっと落ち着ける場所ができ、さらに手当としてもらった二百文を貯蓄にまわせることが、この上なく嬉しいのだ。

額面の違いはあるが、給料を右から左へ人に渡すという点において、自分の暮らしも喜助と大差ないのかもしれない、と庄兵衛は思案するようになる。

ただ不思議なのは、喜助が「欲のないこと、足ることを知っていること」、すなわち先に述べた「知足」を心得ているということだ。

人は身に病があると、この病がなかったらと思う。万一の時に備えるたくわえがないと、少しでもたくわえがあったらと思う。
たくわえがあっても、またそのたくわえがもっと多かったらと思う。

そうして先から先へと考えてみれば、人はどこまでいったら踏み止まることができるのかわからない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。

人間の欲望には果てがない。
現状に満足できず、まだ不安だ、まだまだ足りない、と求めてしまう。
しかし喜助は違う。

庄兵衛は喜助に対してある種の敬意を抱き始めていたことが、喜助を「喜助さん」と呼んでしまう場面から伺える。

現代に生きる私たちにとっても喜助は、「知足」を心得ている学ぶべき人物である。

最後に、私がこの作品を読んで考える「知足」というのは、欲を否定するものではなく、自分が今持っているものをポジティブに捉える姿勢だと思う。
それは物理的なものだけでなく、「生きている」などの精神的なものも含まれるのではないか。

私はこの作品から「知足」というものの重要性を改めて感じた。

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