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コワイの魔力

しょうもない言葉遊びよりも、最近は心にうつりゆくよしなしことを書きたいがために書いている57日目。
今日も読んでくださっている稀有な方々、ありがとうございます。

常々私は、学校における教師の権威性って、なくなればいいなあなんて思っていたんですが、昨日読んでいた本には「よい教師には権威も必要だ」というようなことが書かれていて、考え直すきっかけになりました。
多分私が感じていたのは、権威性が嫌なのではなくて、無駄に振りかざす偉くもないのに偉そうな権威がなくなればいいなってことだったのかもしれません。

で、これって教師と子どもの関係性においてそうだなあと考えていたんですが、むしろ大人同士の関係性の方が意外と厄介なんじゃないかと感じているわけです。
昔、ふとしたきっかけで若者の話を聞く機会があったのですが、そこでポロッと出てきた言葉が

「だって、あいつ怖いんだよね。」
だったんですよね。

こうした怖さのデメリットは、きっと山ほど浮かぶと思うんです。現代の流行りっぽくいうと心理的安全性が確保されないってことです。
そんな中で、私が考えている一番大きな問題は

「怖いやつ以上の力が発揮されない」

ってことだと考えています。

学校教育の面白さの一つって、完璧ですごいとこっちが思っている先生でも合わない子どもがいるってところじゃないですか。一方で、何でこんな指導するんだろうって思ってしまう先生のことを大好きな子どももいます。
そういう人と人との関係性の中で成り立っていく職業だからこそ、みんなが持っている力を存分に発揮できる学校であるべきだと思うわけです。

そんな中、不機嫌や怒りによって人を縛る人がいたら、子ども第一主義ではなくて、その人のご機嫌第一主義になってしまうわけですよね。もう矢印は子どもたちに何をするかではなく、何をしたらこの人が怒らないかになっているわけです。
そうやって若い人たちの芽が一時的であれ摘まれていってしまうのは、ものすごく悲しいことだと思います。

ここから引用

自分の気分で働くとか、全てが自分の思い通りにいかないと怒りを表に出す人って、受け入れるキャパも知識もないわけで、その時点でレベルは知れてると思ってさえいます。だから「怖いやつ以上の力が発揮されない」って、組織にとってむっちゃ悪じゃんね。

あなたの心の中

ここまで引用

そうは言っても、ずっとご機嫌でいることも難しいし、反応しない練習読んでも反応しちゃうのが人間だし私だと思うので、せめて人を不愉快にしないようなレーダーは立てながら、今日も一日過ごしていきます。

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