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お手軽な信じる

いろいろなやるべきことを終えて、この1年間もようやくひと段落。
noteも書ける時に書こうと思って書いている。どうしても書ける時にしてしまうと、まだまだ浅かったり甘かったりすることがあるなあ。でもまあ仕方なし。

この間、ふと思ったんだけれど「子どもを信じて」みたいな言葉がすごくお手軽な言葉になってきている感じがする。
主体的・対話的で深い学びの流れを受けて、自由進度学習とかタブレット端末による実践なんかが広がってくると、どうしても教師の手を離れて子どもが動く時間が増えてくる。それ自体はとてもいいことなんだけれど、それに付随して出てくるのが「子どもたちを信じて」みたいな言葉だ。

で、この「信じて」が実際によくよく話を聞いていくと、それって本当に信じてると言えるのか?みたいなところに繋がっていくことがある気がする。
信じてと言ってはいるものの、それは「子どもたちが私の作った枠の中でだけ動きてくれることを願って」だったり、「自分の想定を超えてくれる児童ドヤッ」のための信じるだったりしているんだと思う。

この辺は、芦田愛菜様がめちゃくちゃ答えを出してくれると思っていて、

「『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」

「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど」

「でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました」

「星の子」完成報告イベントインタビュー

だから、不意な質問されたときに「それでもうちの子どもたちなら大丈夫だと思います。」根拠はないんだけれど、そう思っておくことが、信じるってことになっていくんじゃないかと考えています。

みたいな受け答えにならない限り、ああやっぱりこの人はどこか、自分自身の枠の中で子どもをどうにかしようとしているんだなって感じてしまう。
そんなことが、ちらほらあったので、今日はこのお話でした。

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