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自己責任で起こる事故

おはようございます。
しょうもない言葉遊びをしたいがために書いている11日目。
読んでくださっている稀有な方々、ありがとうございます。

主体的・対話的で深い学びが着目されてから、子どもたちは教師の手を離れて自分達で学ぶことができているかどうかに、より重きが置かれています。
そのためにも授業の始まるまでが勝負!ということで
教師は授業デザインに力を入れ、学習計画や評価を事前に手渡していく。あとはこの計画を達成できるように、自分たちで時間を考えながら取り組んでいこうね。といった自由進度学習的なパッケージをよく目にします。

こうした学習の方法には基本的に賛成で、何をするのか分からないまま1時間が始まっていく、何を評価されているか分からないけれど、通知表の結果で後から全てを知るなんて形よりもずっといいなと思っています。

一方で

「ここまで準備してやってるんだから、もう学ばないのはあなたの責任よね」

という論調を感じることが少なくありません。
教師である自分がこれだけ準備しているんだから、子どもはその対価として学習するのが当たり前だ。その考え方は、結局、自分の教えたいことを一方的に教えているだけの指導と、本質的になんら変わりがないのではないでしょうか。

環境が整っているんだから、それを利用せずにいるのは自己責任でしょうという論調。どこか日本社会に同じような風潮が漂っている気もしています。でもこれってどこか冷たい社会だなと思うわけです。

教室にも努力したくてもなかなかできない人、一度に複数の情報が与えられたら処理できない人が、きっといるはずなのに。
あたかも自分の設計が完璧であるかのように振る舞っていくこと、もっと言えばそうした学習者しか認められない教室には虚しさを感じてしまいます。冷たい風の吹く教室を教師が作ってしまていないか。

学習計画によって子どもが学習できていないのであれば、それは子どもの責任ではなくて、自分の計画が良くなかったと、ただそれだけの話でいいはずで、
それこそ子どもたちに
「今回の学習計画どうだった?分かりづらいところなかった?」
ってただ一言聞いてみれば、お互いによりよい学習環境を作っていけると思うんですよね。

責任の所在を自己に追い求めすぎることで、事故ってしまっていないか、いつも気をつけたいです。


それを防ぐためには、やっぱり見取りとアセスメントに尽きると思います。
授業中に子どもたちの表情や発話、課題への達成具合を具に見ること、成果物から子どもの学習の理解度を見ること。
この辺りに出てくる本に詳しいです。


またそうは言っても一人で見ると必ずどこかにバイアスがかかってしまうので、誰かに教室を見てもらうこと、自分からそんな空気を出して教室を開いていくこと。

そうした風土が広がって、学校の中で互いの教室を見合うのが当たり前になっていくこと、そうしていくことが子どもに不必要な責任を押し付けないことに結び付いていくのではないか、そしてそんな学校になっていくといいなと思います。

もちろんそれは「監視」や「見張り」のような冷たい見合いではなく、「見守る」「見込む」といった、今を受け止めて未来に期待するような温かい目が求められている。そんな気がしています。

教師の学びも自己責任になるのではなく、互いに成長し合えるような環境になっていけば、校内で一人悶々とすることも、悩み苦しむことも薄くなっていくのではないか、そんな明るい学校を夢見ながら。


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