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今年の読書録②「パルムの僧院」(その1)

文庫の上下巻二冊を並べて置いてみると、その表紙のイラストの巧拙は別として、なかなか美しい色合いの、男女の向き合った一幅の絵が出来上がる。

左側の女性が魅力的な人妻のジーナ、右側の若者が本編の主人公ファブリスの肖像、というところであろうか。

大岡昇平による格調高い翻訳で、そのへんは比類なく素晴らしいのだが、じつは読了して、よくわからないというか、面白いのだけれど、ピンとこないというのが、読後のまあ正直な感想である。

今回はこの、傑作かも知れないけれど、

「どうもよく分からない」

という、本好きであれば誰でも経験あるはずの感覚について書きたいと思う。

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スタンダールからいったん離れるが、有名な日本人作家で、わたしの

「どうもよく分からない」

に、まず海外でも評価の高い、村上春樹氏がある。

また、現代でも根強いファンのいる昭和の流行作家、太宰治がある。

この二氏は、わたしの信頼する書評家が褒めていたりするので、何度も挑戦してきたのだが、どうしてもピンとこない、というか、むしろ読んでいて嫌な感じさえ受けてしまう。

ここに「あまりにメジャーな作家だから、格好つけてアンチを気取ってみました」的なものは無いといったん信じていただきたい。前述のごとく、好きな書評家が褒めているのだ。解りたいのだ、わたしは。

村上春樹氏のものは、処女作から1Qナントカまで、10冊くらいは読んだと思う。いいな、と思ったので覚えているのは「蛍」という短篇で、それもラストの描写で唸らされたのでセーフな感じで、途中はやっぱり、おきまりの「クサいせりふ」に辟易した。

そう。たぶんファンが「かっちょいい」と思う(のか?)せりふが、とにかくしゃらくさいというか、鼻についてどうしょうもないのだ。そこじゃない、そこじゃないんだ、そこはスルーして読もうよ、と頭では思うのだけれど、処女作(だっけかな?)「シェービングクリームの缶を握って泣くんだ」とか確かそんなせりふとか、「クッサ!」ってなって、本をいったん閉じざるを得ないのは、思い出して書きながら実感したけれど、たぶん今読んでも、同じことになると思う。

「世界の終わりと」云々だったか、冒頭で架空の動物の頭骨の描写があって、これも素晴らしく、まるでフェルメールの名画のような緊張感と抒情性で、「さすがノーベル賞候補」と唸ったのだけれど、その先を覚えていないくらい結局いやな思いをして、話はすっかりわすれてしまった。1Qナントカも一巻だけ読んだけどぜんぶ忘れた。たぶん描かれている人間像が、どうもお気に召さないというか、たぶんわたしに引っかからないのだと思う。

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タイプはまったく違うが、太宰治も、二十代くらいに何度もアタックしては毎度好きになれぬまま本を閉じることになっている。そもそもそこまでする価値のある小説家なのか? でも今でも褒める人、多いですよね。

二年くらい前に青空文庫で読んだ「グッドバイ」は良かった。冒頭のラフ・スケッチのような軽い感じといい、展開の妙といい、それこそせりふは面白いし申し分ない。まあ未完がしのばれるが、正直あのへんでやめといてよかった気もする。しかしファンになるかというと、やっぱ、全然。

「人間失格」なんてタイトルばかりうまい小説、むかし我慢して読んだけど、今の若い人が読んで面白いのかね。

まあ結局、どうしようもなく「分からない」ということなのだろう。

これは作品の罪ではなく、相性の問題で、わたしはどちらかというと身体も頑健で、そのせいばかりではないと思うが間違いなく無神経な男であり、社会的にもごく凡庸な、そもそもアル中気味の、唾棄すべき、シャイじゃない、鈍感な、ごくごくありきたりの、もしかして悪い意味での日本人、なのだろう。

そういえば太宰も、村上春樹氏はよく知らないが、社会的には完全にはみ出し者で、またそういう内心を命がけで守り抜いた男とも言え、つまりはそういう人間の悲しみをくみ取る心のパーツが、足りていないということかも知れないな。

という分析のごときものは、当然二十代に済ませているわたしは結局、

「分からないものは分からない」

と半ば開き直っているものの、そこに幾ばくの罪悪感のごときものが、やはりしこりのように残るのも、また事実である。

このへんの内心、同感できる方、いるよね?

「パルムの僧院」は、次回。












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