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学校から、あらゆる流派から抜け出すこと、これが最も肝要なのだ。───だからピサロは間違っていなかったのだ───セザンヌ

末期ガンに侵されていることを告げられた瞬間、その人の内部で大きな変化が起きる。診療室で告げられたひとことによって、自分にとって一番大切なことは何かが明らかになる。60秒前までこれ以上重要なことはないと思えたものが突然無意味なものとなり、それまでにないがしろにしてきたことや人が最も重要ではなくなるかもしれない(中略)末期ガンを告知された人々の脳裏には、さまざまな思いが浮かぶ。

ナマコには「フロンドシドA」という抗がん作用のある成分が含まれています。それも驚異的な抗がん作用を有し、乳がん細胞の95%、すい臓がん細胞及び肝臓がん細胞の90%、肺がん細胞の88%が、ナマコのフロンドシドAによって死滅したという実験報告も残っています。このナマコの粉末は健康食品として日本でも販売されていますが、これを服用するときも生のナマコを一緒に食べたほうが、酵素が働いてフロンドシドAの細胞への吸収力を促進してくれます。

香港の「大上海飯店」 で、好物の大海参(大ナマコ)を賞味。当時、日本映画にも出演していた人気スター、ユーミン嬢(※香港映画界で活躍したスター女優の尤敏ゆうみん)を迎えて、梅原先生ご機嫌の図である───高峰秀子氏(女優兼モデル)※引用者加筆.

カーニュで憧れのルノワールに会うことができたとき、二〇歳の梅原はその画家魂のよって来るところを見逃さなかった

バジール宛に、ルノワールはこう書いている。「毎日食事にありつけるとは限らないが、それでもぼくは満足している(中略)この艱難な時期をふりかえって、 ルノワールは晩年、若い友人の画家アルベール・アンドレにこう供述している(中略)あのがんばり屋のモネのやつに肩を叩かれ励まされなかったら、絵筆を捨てていたかもしれない」(中略)ルノワールはセザンヌを尊敬していた

フランス中部リモージュの貧しい仕立て屋の家に生まれたルノワール。 生活は苦しく、わずか十三歳でパリの陶器工場で見習い工として働き始めた(※当時、工場労働者は一日約五フランの収入。今の価値で2500円〜5000円)※引用者加筆.

磁器工場を(機械化のあおりを受け)失職後、ルノワールはさまざまな雑用をこなしお金を貯め、一八八六年、エコール・デ・ボザールに入学した(中略)それまで旅といえるような旅をしたことのなかったルノワールは、内海一つ隔てたところに、南フランスの空よりも、もっと青い空があることをはじめて知った。

上層ブルジョワ階級出身の、ドガ、そしてカイユボットが労働者に対して向けたドライな視線と違い、ルノワールは労働者階級に対して常に温かい視線を注いでいた。人生の現実であり、闇の部分を肌身に感じていたルノワールだからこそ、あえて人生の喜びしか描かなかったのである。彼は観ていて楽しくなるような絵しか描かなかったのだ(中略)13歳から働きづめに働いてきて、やっと経済的な安定を得たルノワールは、1881年2月末から3月にかけて40歳にして初めて外国へと旅に出ることにした。

ルノワール。彼は上流社交界の女性を描くのを好まず、庶民の娘たちを多々モデルにした

パスカルも言うがごとく、人間が興味を持つ対象はただ一つ、人間そのものなのだ。

ルノワールにとって自然と女性は同質であった(中略)絵画とは「生きる歓び」を描くことだと考えていたルノワールの信念がみごとに表現されている(中略)晩年、交友があった若い芸術家に宛てた手紙の中でセザンヌは、「感動を持つ者のみが与えうる〈衝撃(impulsion)〉をあなた方の芸術に刻みつけなさい」と助言している。

マティス(引用者撮影)↑

マティスは1919年6月のルノワールの死の際、こう宣言している。「ああ、ルノワールは奇跡だった(中略)(※死の数時間前に)(※ルノワール)は看護人にこうつぶやいた。「ようやく何かわかりかけてきたような気がする」※引用者加筆.

セザンヌは生涯、ピサロへの敬意を失わなかった。

(※セザンヌからの手紙)学校から、あらゆる流派から抜け出すこと、これが最も肝要なのだ。───だからピサロは間違っていなかったのだ ※引用者加筆.


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