見出し画像

「芸術家」のイメージは、すなわち、反社会的、アウトサイダー、非家族的といった概念とつねに結びつき、発展

↑上の絵は、ゴッホが印象派の画家たちを仏教僧のように感じて、仏教僧になった自分を描いた自画像である。ゴッホの弟テオは、誰よりも印象派を理解しようとしていた。ゴッホはおそらく、弟テオとの交流や彼自身が感じた感覚から、彼らをそのように想像したのだろう。引用者は私の過去のサイト内でこの話への言及の箇所を探しているが、この話自体が隠されているように思う。多くの文献は意図的にこの話を省略している。

ドガから誘われたとき、ベルトは同時に、彼らとの新しい活動のなかにこそ、自分自身の居場所を見いだせそうだと直感的に思った(中略)「芸術家」のイメージは、すなわち、反社会的、アウトサイダー、非家族的といった概念とつねに結びつき、発展

ベルト・モリゾ(引用者撮影)↑

独立を旗印に無名の画家たちを集結する憲章に彼女(※ベルト・モリゾ)は署名する(中略)ルノワールは最前線に立ってはいるが、革命家になることは差し控える。───ベルト・モリゾ ※引用者加筆.

ベルト・モリゾ(引用者撮影)↑

彼女(※ベルト・モリゾ)は画家になることをあきらめるくらいなら、一生独身を通すつもりでいたのだ。※引用者加筆.

女性というものは、世界を微妙なニュアンスをもって優雅に揺れ動き続ける表面的な事象として見るものだ。したがって、印象派の理念を正確にくみ取れるのは女性たちだけだ。

現在、その展覧会は、「印象派展」という強力な俗称で広く知られているものであるが、もともとの名称は、「画家、彫刻家、版画家などの共同出資会社(略)」 というものであり、いまやその長ったらしい正式名称が使用されることは、ほとんどない。そのような無個性な名称が採用されたわけは、何かしら主義主張を打ち出すことが鑑賞者に特定のイメージを抱かせることになりはしないかと危惧されたからだといわれている。

モリゾの死の知らせを受けたとき、ルノワールは南仏で製作中だったが、すぐに道具をしまうと、駅へ急いだ。「砂漠のなかに、たったひとりで取り残されたようだった」と、そのときの寂しく悲しい気持ちを、彼はのちに語ったという。

「人生における目的」とか、成功とか失敗とか、報いとか罰とかいう観念は、ルノワールには無縁のものだった(中略)ルノワールは、めったに、教会に足を踏み入れなかった。 一度もなかったと言えるほどだ(中略)目下のわれわれの問題は宗教なのだから、ルノワールと無神論について、二、三つけ加えておきたい。彼の友人の多くは (そのなかには極めて親しい、遠慮のない間柄の人たちもいた)、無神論者だった。そういう人びとは、ルノワールも自分たちの仲間だと思っていた。彼らには、彼らのような革命的な絵を描きながら同時に神を信ずるなどということは不可能と思われたのだ(中略)ところが、これまた父(※ルノワール)の友人で、熱烈なカトリック信者であるような人たちは、父の信仰の正当性になんの疑いも持たなかった。彼は、人びとを苦しませることをひどく恐れていたから、彼らの意見に逆らうのを避けていたのだ。 だから、皆、自分が選んだルノワールが真のルノワールだと思い込み、ルノワールが心のなかで、自分たちの論争を無駄なお喋りだと思っていることなど、少しも気付かなかったのだ(中略)(※ルノワールの息子ジャンの回想)ルノワールはいつも三等で旅行したが、これはそうせざるを得なかったからだ。だが、かりに一等で旅行出来るだけの資力があったとしても、そんなことに金を使いはしなかっただろう(中略)じつのところ私(※息子のジャン)には、絵画とはなにかがまったくわかっていなかった。一般に芸術がどんなものでありうるか辛うじて推察できるだけだった。私の眼に見えるものといえば、この世界のかずかずの外見だけだった(中略)だが、今私にはわかっている。われわれを助けてものの外見を超えて見せること、われわれが身に負うた物質の重荷をいささかでも取り去ること、インド人流に言えばこうしてわれわれを「解脱させる」こと、これこそ偉大な人間が果たす役割に他ならないのだ。───ジャン・ルノワール ※引用者加筆.

密教、バラモン教は苦しい修行で解脱、しかし他力。自力でもあり他力でもあるのが釈迦仏教───苫米地英人博士(著書名失念)

人は自分の絵を描くのだ(中略)セザンヌの死の前後、セザンヌの作品が多く発表されて、多感な画家たちはセザニアンとなった。ブラマンクもその一人である(中略)一つの芸術が偉大なるためには真面目であらねばならぬ。これは恋愛の場合と同様に鉄則である。真面目を言う者は偉大を信じ、偉大を信ずる者はクラシックを叫ぶ。───ブラマンク(中略)同情的な団体、流派、流派の首領、流派の大家・・・・・。これらの冗談を私は認めない。

ヴラマンクは勇ましく現実に反発し、あらゆる制度、習慣を否定する。その意味ではアナーキストであろう。第1次大戦後すでにヴラマンクは語っている。「戦争は自分にとって大きな教訓であった。それはすでに自分が考えていたことを証明した。文明に、科学に、進歩に、社会主義に対する自分の信頼は崩壊した。自分はもはや何も信じない。ただ自己自身のみを信じるのだ」と断固として言いきったものである。こうしてヴラマンクはアナーキストとしての信念を抱き、自由と個人の権威を貫こうとする(中略)晩年リュエイの彼の家へは、日曜日になると近所の村人が訪ねてくる。それは彼を愛し彼の言葉に耳を傾けにやってくるのである。そこでヴラマンクは熱をこめて語るのである。「不従順であること。共犯となることを拒否すること。文明の進歩に従わぬことである。機械に従わぬことである。馬鹿げたことに従わぬことである。俗衆のゆく道を逆にゆくこと。近代の疑似神秘から逃れること(中略)・・・・・・ただひとりでゆくこと。ただひとりで・・・・・・(中略)ゴッホの展覧会が開かれた際、ヴラマンクは初めてゴッホの作品に接した。ゴッホの色を見、そのはち切れるほどの意欲に圧倒されて、ヴラマンクは極度に感動したのである(中略)回想記の中で、ヴラマンクは「あの日は、私の父よりもゴッホの方が好きになった」と書いている。

ゴッホ(引用者撮影)↑

ブラマンクは、画家になってからも、少年時代と同じように自転車を愛し、ボートを愛し、音楽に熱中する。彼は賞金めあての自転車レースやボート競漕に出場し、アマ・ボクシングでかせぐ。そうかと思うと、バイオリンをもって、キャフェやモンマルトルの舞台にもあらわれるのである(中略)ブラマンクは、ほとんど絵画的な教育など受けずに画家になった。それどころか、彼はルーブル美術館に足を入れたことのないのを誇りとし、美術教育だの、洗練された絵画の味などに対しては正面から反撥し、徹底的に自由を愛し、自由な制作を主張した。

ピカソ(引用者撮影)↑

ピカソが絵を描き始めた頃、ファン・ゴッホはまだ生きていた。エクス=アン=プロヴァンスの光溢れる田舎では、セザンヌがほとんど宗教的とも言える眼差しで、お気に入りのモチーフであるサント=ヴィクトワール山を繰り返し描いていた。そしてゴーガンはタヒチへ行くことを考えていた。

ゴッホの手紙がネイティブの手を借りる必要もないほど正確なフランス語で書かれたことは驚異的なことである。のみならず、忙しい制作の合間には、フランス、イギリスの近代文学も原語で幅広く読んでいた(中略)(※ゴッホから弟への手紙)解剖学に関するとても美しい本を買った。ジョン・マーシャルの『芸術家のための解剖学』という本だ。非常に高かったが、とても優れた本で、ぼくのこれからの人生にとって、大いに役に立つと思う。そのほか、エコール・デ・ボザールで使用している本を買った。多くのことを修得する鍵は、人体に関する基本的な知識だ。しかし、それを学ぶには、莫大な費用がかかる。※引用者加筆.

(※ゴッホの)弟のテオは一度も絵筆を取らなかったが、歴史上、特に重要な絵画の共同製作者と認識する(中略)フィンセント(※ゴッホ)はテオに生涯で約六〇〇通の手紙を書いているが、テオの返信と思しきものは約四〇通しか残っていない。ほかの家族との手紙のやりとりを見ると、テオが筆まめだったことがわかるため、現存する文書からうかがえるより、多くの手紙をフィンセントに書いたことは確実である。※引用者加筆.

(※ゴッホの弟テオの勤め先の)社長のブッソ氏は、現代作家のわけのわからぬ作品をかかえこんだために会社は信用を失った、とこぼしたが、テオが時代を見分ける確かな目をもっていたことをまもなく知ることになる(中略)テオ(※ゴッホの弟)は、モネ、ピサロ、ドガ、スーラ、ゴーギャン、ロートレックなど印象派の画家たちの絵を積極的に扱っていた。※引用者加筆.

ドガはテオ(※ゴッホの弟)が亡くなる(※1887年〜)1891年まで、彼 (※テオ)との取引を続けた(中略)ドガは、芸術家というものは、束縛も、習慣も、義務ももつものではなく、ただ、常に魂の安らぎだけを持つものである、と考えている人々の一人であった。※引用者加筆.

モネ(引用者撮影)↑

一八八八年から一八八九年にかけて、 テオが展示したモネの絵はすべて売れている(中略)(※ゴッホから妹のウィルへの手紙)《テオは印象派の画家たちのために、できるだけのことをしてくれている。 みんなのためにずいぶん骨を折ってくれている。何枚か絵も売ってくれたし、これからも続けてくれるだろう(中略)テオはヴィンセントに、カミーユピサロも紹介した。彼は兄弟にとって、誠実で無二の友となる。ついで、エミール・シェフネッケルの自宅でゴーギャンと出会った(中略)テオは、画廊に寄託されていたピサロの絵を二枚、一〇〇フランで売っている。ブッソ(※画廊)の手数料を差し引くと、画家にはほんのわずかな額しかのこらなかった。ピサロの絵を非常に高く買っているテオにしてみば、いつも忸怩たる思いにとらわれるのだった(中略)(※テオは)ピサロにはたびたび前払いしている(中略)ピサロの方は、テオを「たいへん心広く、直感的で興味深い人物」と思っていた ※引用者加筆.

生前、ゴッホは月々150フランの生活費が滞るのを不安に思い、日々生きていた。そこにゴッホの現実があったことをつねに忘れないでいたい(中略)ゴッホ兄弟は読書家であった。廉価本を手に入れたり、図書館で借りたりするほかに、兄弟間で本のやりとりも日常的に行っていた(中略)結果的にはいつも敗北者のように見えながら、頭脳は休むことなく動き、必死で自分をコントロールし、ゴッホなりの読みや思惑をいつも抱いている。渦中にありながら、自己を見失うことなくその先のことも考えている(中略)雪混じりの寒風のなか、ゴッホは手をかじかませながらペンを握り、いつまで眺めていても飽きることのない木々の枝、その枝が交錯してできる複雑な造形を一生懸命に描いている。

弟テオあての手紙によれば、ゴッホのひまわりは「愛のシンボル」であるという。

ある程度厚く塗った絵具は、ほとんど例外なくひび割れる(中略)ゴッホの作品を注意して見ると、梱包の仕方にもゴッホ独自の工夫をしていたことがわかる(中略)完全乾燥の前、ちょうどいい頃合のときに送れば、ほとんど損傷なく送れる。絶えず、どんな理由があろうとも、送る時期を見誤らずに作品を送り続けるゴッホがいることを忘れてはならない(中略)自分に忠実に生きること、それが見かけ上周囲から浮き上がっていても、流行から外れていても、信念を貫く者は何かを成就するかもしれない。それは、自己表現の原点であるからだ。本物なら、いずれ必ず人々の胸を打つ(中略)ゴッホの表現の特徴は、最初に思い描いたものに一直線に突き進むところにある。頭のなかに描く完成像は、具体的なかたちをもたないが、それを具体的なかたちに置き換えていく作業が制作である。そこに見るものは、迷いのない一貫性である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?