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われわれは彼(仏陀)に我々の存在の理由を問うべきだろうか。 とまれインドに生まれかわりたいものだ

シェレは植字工の息子としてパリの労働者階級のうち上層の出身であったが、社会的地位や名声の頂点に独学で登り詰めた「自力で立身出世した人物」という受け取り方をされていた(中略)パリに流布する大衆向け版画の分野において、真の意味で芸術家肌であるのは、雨風で切れ端がぼろぼろになり、壁に並んでカサカサと音を立てるこれらのポスターを、名声など気にせずに制作する[シェレ]その人である。彼のポスターが壁に張り出されるようになったことは、まったく愉快な出来事だった(中略)スーラはシェレのポスターを収集して、その「秘密」を学んでいた。

1点のパステル画をルドンは《仏陀》と呼んでいた。ルドンにとっては宗教の違いは大した問題ではなく、両者の内面性が重要だった。キリストと仏陀の間には類縁関係があるとしたシェレの主張も、画家の脳裏にあったのだろう

イエスとブッダは本気で、この人々(衆生)を助けようとした↓
ルドン(引用者撮影)↑

画家オディロン・ルドンは次のように称賛している。「ピサロ氏は、あまり知られていない風景画家だ(中略)まちがいなく世間は、もうすぐこの本物の人物に注目するようになる(中略)エリート主義と独身を貫いたドガとちがって、あえて「商人」としての何不自由ない将来を断ち切ることにより貧乏な画家となり、しかも子供をたくさん抱えていたピサロ(中略)ユダヤ人のピサロと反ユダヤ主義者のドガが、画風も性格もすべてにおいてまったく相容れないにもかかわらず、二〇年以上にわたって協力し合っていたという驚くべき関係性を生み出すことにもなるが、ようするに印象派という場において彼らは、平等の権利によって同質化するのではなく、むしろ同じ条件の下で差異を分かち合い、そこにおいてこそ緊密に結ばれていたといえるのである。

ルドン(引用者撮影)↑

仏陀は、「すべては滅びゆく」と説いたものだが、それも今や光りに包まれた清冽な瞑想者、浄福に溢れる僧形に変じている。「我々は自分たちの夢と等しい実質より成り立っている」とシェイクスピアを引き、「記憶にあることどもは一種の宝であって、年を取るにつれて、度ごとに、膨らみ、豊かになる」と書いて、存在を記憶の総体とみなす晩年のルドンはまた「われわれは彼(仏陀)に我々の存在の理由を問うべきだろうか。 とまれインドに生まれかわりたいものだ」とも漏らしている(一九〇四年・フリゾーあての手紙)(中略)ルドン年譜 一八五七年 一七歳 インドの詩やスピノザ哲学に目を啓れたという(中略)一八六四年 二四歳 このころカミーユ・コローに会った

画家のオディロン・ルドンはこう書いている。「彼(※ドガ)の名前はその作品以上に、個性の同義語だ。」※引用者加筆.

(※ドガの)友人たちは、たとえば晩餐のときに、次のような彼の条件に従わなければならなかった。 「バターを使わない料理にしよう(中略)女性が同席する場合は、匂いをつけてこないように言っておかなくてはならない。※引用者加筆.

ゴーギャン(引用者撮影)↑

性格もマナーも悪く、友人から見離されたゴーギャン。そして周囲から「小言の多いドガ、愚痴の多いエドガー」といわれるほどの気むずかし屋ドガ。しかしこの2人のあいだには、友情と互いへの尊敬がめばえていった。ドガのゴーギャンへの友情は、遠く距離を隔てたタヒチ移住以降もつづく。

ドガ(引用者撮影)↑

(※ドガ)は結婚について考えたこともありません。彼は孤独を愛していたのです。※引用者加筆.

ドガ(引用者撮影)↑

まっとうなレールの上をせっかく走り始めていたのに、今度はそこから飛び立とうとしている自分を感じて、メアリー(※カサット)は葛藤していた。そんなとき、街角にひっそりと建つ小さな画廊のショーウィンドウの前を通りかかった(中略)それは、破産危機に直面していた画廊だった。モネやルノワール、シスレーやピサロといった名もない画家たちの作品をけんめいに売り出そうとして、世間から馬鹿者呼ばわりされている画廊。それこそが、デュラン=リュエル画廊だった(中略)緻密な構成も技術も熟練もなしに勝手気ままに描く稚拙な絵、と批評家に嘲笑を浴びせされた彼らの作品は、やがてその揶揄を冠して「印象派」と呼ばれるようになる。※引用者加筆.

ペンシルバニア州の裕福な実業家の家に生まれたカサット。

(※メアリー・カサットは)恵まれた人脈を生かして、絵の購買層となるアメリカ上流階級の人々に印象派がいかに有益な投資であるかを説いて回った。※引用者加筆.

メアリー・カサット(引用者撮影)↑

メアリーカサットは一度も結婚しなかった。

ドガ(引用者撮影)↑

自分と同じような(※独身を貫く)道を行くことを、ドガはメアリーに強く勧めた(中略)父親が 「絵描きになったおまえを見るくらいなら、いっそ死んだおまえを見る方がいい」と叫んだときにも、彼女の決心が揺らぐことはなかった(中略)メアリーとドガが実際に恋人同士であったかどうか、二人の間で結婚について語られることがあったかどうか、我々には知るよしもない。メアリーは、死の数年前にドガからの手紙をすべて焼き払っているのでなおさらである(中略)ドガはメアリーに対して、ほかの女性には決して見せないような優しさと寛大さを示している。 たとえば、ドガ自身はペットなどを軽蔑していたが、ベルギー産のグリフォン犬の子犬を彼女のためにたいそう骨を折って見つけだしている。そしてメアリーは、死ぬまでグリフォン種の小型テリアを側から離さなかった(中略)カサット夫人(※メアリーの母親)はあるとき息子(※おそらくメアリーの兄)にこう書き送っている。「仕事に対して確固たる情熱を持っていれば、女は結婚しない方が幸せだと思います。その仕事は夢中になれるものであるほどよいと思います」(中略)彼女 (※メアリー)はよくこんな言葉を口にしたと伝えられている。「芸術家には二つの道がある。一つは広くて楽な道、もう一つは狭くて険しい道」。彼女がどちらを選んだかは言うまでもない。※引用者加筆.

ピサロほどやさしい人は、ほかにいなかった [・・・・・・]。(中略)さらに、「師としてピサロは、もの言わぬ石にだって絵の書き方を正しく教えることができただろう。」と述懐するのはメアリ・カサットである(中略)不幸なことに民衆は、いま何が進行しているのか露ほども理解していない(中略)打ちひしがれるのは結局誰かということをわが身に問うこともない(中略)芸術とは美しくそして善であるとき、すべてアナーキスト的である! 私が考えているのはそのような芸術なのだ───カミーユ・ピサロ(中略)(※ピサロは)獄中の年若きアナーキストに五〇フランの献金をした。この献金を嬉しく思ったプジェは、ピサロに宛てて礼状を書き送る。が、エラニー(※エラニーは町の名前)でそれを受け取って開封したのはじつはピサロではなく、妻のジュリーであった。突然舞い込んだ礼状に驚いた彼女は、「とにかくすこしでも倹約しようと切り詰めてやってきて、そのうえくたくたになるまで働いているのに、あなたは他人のためにいともたやすく五〇フランを使っている。それじゃわたしは、まったく哀れな馬鹿者じゃないですか [・・・・・・]」(中略)(※ピサロは息子の)リュシアンにつぎのように伝えている。君にプジェの手紙(プジェからピサロ宛の礼状)を送る。 彼はいま監獄の中だ。彼の手紙の裏には母さんの辛辣な言葉が書かれているが、プジェの不幸に心を動かされたのだから、仕方があるまい。いってみれば、わたしたちが困っているとき、カイユボットがわたしたちに与えてくれたものを今は誰か別の人に送り返しているにすぎない[・・・・・・](中略)おそらくピサロにはジュリーの気持ちが分からなかったわけではない(中略)ピサロの献金はその後も誰かしら逮捕されるたびに行われている(中略)逮捕者の子どもたちを支援するために、すくない額ではあったけれども、折にふれ寄付をつづけていたことが知られている。またグラーブの『反抗』をはじめ、いくつかのアナーキストの雑誌を存続させるためにも、わずかではあるが寄付を行い、グラーブの証言するところによれば、それらの寄付は合算するとかなりの金額に達していたといわれる。何度もくりかえすようであるが、ピサロ家の財政事情には他人を構っていられるような余裕などすこしもなかったことは明らかである。※引用者加筆.

無知による敵意に対し、自らの革新的な信念を貫こうとする。今日ではあまりに当たり前のこととなっているこの芸術家像は、印象派によってつくり出されたイメージだ(中略)人は思考する生き物だ。 ───オディロン・ルドン

イギリス留学中のアンベードカルの良き理解者で教師でもあった、当時有名な社会学者、ハロルド・ラスキはこういっています。〈人間の行為こそがその思想をいい表わしている。何を言ったかがその人間の思想ではなく、何を行ったかがその真の思想なのだ〉と。



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