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真の天才が世に現れるとき、この兆候でその人物がわかることがある。つまり、劣等な者たちが皆、手を組んでその人物に背を向ける現象だ

ときどき、サンタクロースとレジスタンスは双子ではないかと思ってしまう(中略)私は、創造性とレジスタンスは同じ場所で生まれると思う。創造性もレジスタンスと同じく、持って生まれた要素が強いのではないだろうか。

レジスタンストレーニングの最大のハードルは、たいていの人がまったくやらないか、やりすぎるかどちらかの傾向があることだ。

ピカソの闘牛に対する熱狂は、マラガでの幼年期に辿ることができる(中略)「サルバトール伯父さんがある日僕(※ピカソ)に言ったんだ。ミサに行かないのなら闘牛に連れていかないぞってね。それでミサに行ったのさ。闘牛に行くためなら20回でもミサに行っただろう」。こうしてピカソの闘牛好きは作品にも反映され、油彩作品も、版画や彫刻作品も始めて制作したものはすべて闘牛を主題としたものだった。ピカソにとって闘牛は単に嗜好の問題に留まるものではなく、そこに深い人生観さえ読み取ることができる。「僕たちスペイン人ってやつは、朝はミサ、午後は闘牛、夜は売春宿ときている。いったい、何を通してそれが混ざり合うのかって? 悲しみだよ」という言葉は、ピカソが闘牛に生と死、性といった要素が凝縮された人生の縮図までも見ていたことを示している。※引用者加筆.

日曜には教会に通うカトリック信者のブラックは、こうした神を穢す方面はできれば避けたかった。ピカソの画家仲間のなかでは誰より宗教、哲学に深い関心を寄せたドランも同様である。

ゴヤは、版画集『気まぐれ』にも見出せるように、制度としてのカトリック教会には批判的であったが、キリスト教信仰そのものを否定したことはなかった(中略)ゴヤは独立戦争の間、その時々の状況に応じて重要人物の姿を描き続けた(中略)少年の頃はプラドを訪ね、バルセロナとパリでの青春時代には「プティ・ゴヤ(小さなゴヤ)」と渾名されたピカソにとって、ゴヤは特別な存在であった。その意識は、今日では反戦平和の記念碑とされる《ゲルニカ》の制作時、ゴヤの《1808年5月3日》を通し覚醒(中略)若い頃からの〝闘牛愛好家〟であるゴヤは「国民的な祭典」と呼ばれる闘牛の歴史をたどる一方、自らが目撃した闘牛の名場面を回想しつつ、刻んでいった。

研究者はスポーツの理論モデルを開発するとき、現実を抽象へと変換する。彼らは細部を取り除き、重要な特色にもっぱら注意を向ける。まさにそれと同じことをしたので有名なのがパブロ・ピカソだ。ピカソは一九四五年の冬に「牡牛」のリトグラフを製作したとき、牡牛の写実的な描写から始めた。当時それを見ていた助手は、次のように語っている。「堂々とした、肉付きの良い牡牛でした。これででき上りだと心のなかで思いました」。だが、ピカソにとってそれは完成ではなかった。最初の版画ができると、彼は二番目へ、さらに三番目へと進んだ。ピカソが新しい版画を作るたび牡牛が変わるのを目の当たりにした。「だんだん小さくなり、痩せ細っていきました。ピカソは描き加えていくのではなく取り去っていったのです」と彼は言った。ピカソは新たな版画を作るたびに牡牛の肉を削ぎ落とし、重要な輪郭だけを残し、結局は一一番目まで行った。最後には細部がほとんど消え去り、ほんの少しの線以外は何もなくなった。だがその形を見れば、依然として牡牛だとわかった。ピカソはそれらの数本の線で牡牛の本質を捉えていた。

アンリ(※マティス)は落ち込み、父親は悩み、ふたりのあいだには長く生き苦しい沈黙がただよった。ある日ふたりは連れだってある美術館を訪れ、そこでアンリは初めてゴヤの絵に出会う。「それまで自分には才能が無いと思っていた。なぜならほかのみんなのような絵が描けないからだ」とマティスはのちに回想している。だがゴヤを見てすべてが変わった。ゴヤの絵は真の生命に満ちあふれていて、マティスの教師たちがもとめるような、冷たい完璧な絵とはまるでちがっていた。「そのときわたしは理解したのだ、絵とは言葉になりうるのだということ、そして自分も画家になることができるのだということを」。※引用者加筆.

マティスは最初、屋根裏部屋に友達の画家といっしょに住んだ(中略)ところが(※約二十年後の)一九一三年、すでに経済的にも安定した家庭的な父親になっていたのだが、彼は三人の子どもと妻アメリーとともに再度この建物の四階の、以前住んでいた部屋の真下へ引っ越した。その窓からのながめは他に代えがたいほどの魅力があったのだろう。※引用者加筆.

私が思うに、すぐれた芸術家でありたいなら、孤独になることが必要だ───マティス(中略)断固たる無神論者だったマティス(中略)裕福なブルジョワへの怒りといったアナーキーな感情がひそんでいたことを後年のマティスは認めている(中略)マティスは、ピサロから初めてセザンヌの存在を教えられた(中略)マティスは助言を求めてロダンを訪ねたが、この巨匠の生き生きとした独創的な写実主義の秘訣を得ることはできなかった(中略)戦後になってヴァンスのマティスのもとを訪れた人びとは、みながみな二つのことに驚かされた。一つ目は、こんな箱のような小さな家にマティスが住んでいたのかということ。ル・レーブ荘はとても質素な目立たない家だったので、ピカソは最初、もっと先にある立派な家のドアをノックし、近所の人に案内されてマティスの住む家まで戻ってきたほどだった。

マティスは、弱い人間だけが過去の巨匠の教えや影響を受け入れることができないと考えた。彼は自分を強いと考えたので、プッサン、シャルダン、ワトー、マネ、セザンヌ、ロダンなど、自分の感性に近いと思えたこれらの先人たちの研究にどっぷりと漬かることを躊躇しなかった(中略)色彩への情熱が、マティスをしぶしぶながらもフォービィスム(野獣派)と呼ばれた画派のリーダーに押し上げることになる。ちょうど40年ほど前に、マネが知らず知らずのうちに印象派のリーダーとなっていたのと同じである。マティスはもともと中産階級的な態度がしみついているし、どんなたぐいの騒ぎも苦手なのに、「フォーブ」(フランス語で「野獣」を指す)たちの旗手に祭り上げられ、批評家たちのいちばんの標的になってしまったのだ(中略)それでもマティスには世の中にショックを与えようというつもりなどさらさらなかった(中略)この野獣、この「フォーブ」は、時代の評価とは反対に、心優しき子羊であり、むしろ人々の病を癒そうと決意した情け深い精神科医のようだった。

シャルル・モンスレは決定的な評決を書き、その意味するところは年月を経て賛辞に変わった。「マネ氏はゴヤの弟子である。彼は既にブルジョワジーのひんしゅくを買っている」(中略)「誠実ゆえに作品に与える効果は抗議のように見えるかもしれないが、画家は単に印象を伝えよう、他の何者でもなくただ自分自身であろうとしているだけである」。「印象を伝える」 、他の誰が印象主義の導き手になり得ようか。マネがいわゆる芸術の伝統と規則を捨てたことで自らに招いた敵意は、彼の賛同者の支援をむしろ強固にした(中略)彼を「野蛮人」「背教者」「非国民」と断罪していた人々は、革新と模倣が組み合わさった彼の芸術のパラドックスが目に入らなかったのである。

クレマンソーがマネの『オランピア』をルーヴル美術館に受け容れさせる

伊藤博文の背後には、ヨーロッパのフリーメイソンのネットワークがあった。その中心人物はクレマンソーである。伊藤博文と西園寺公望のフリーメイソンネットワーク 板垣は外遊のときにフランスで、フリーメイソンと深い関わりを持つジョルジュ・クレマンソーというフランス人と会っている。(板垣は)それでも政治家のクレマンソー、文豪ユーゴー、学者のスペンサー、パリ・コミューンの闘士だったエミール・アラコスなどに会っている。

天才は、世の中を疑うことを常としているだけでなく、物事を正すことを常としている(中略)「真の天才が世に現れるとき、この兆候でその人物がわかることがある。つまり、劣等な者たちが皆、手を組んでその人物に背を向ける現象だ」と、作家のジョナサン・スウィフトは1728年に述べている(中略)天才はトラブルメーカーであり、トラブルメーカーは私たち劣等な者から見て、物事をややこしくする(中略)だから天才は私たちの心を落ち着かなくさせる。天才は私たちに変化を求める。変化には努力が必要だ(中略)天才は遺伝形質ではなく、「一度きりの」現象(中略)天才の行動には通常、破壊が伴う。これが一般に言われる進歩だ。

多分マネには偏見など少しもないのだ。彼がかたくななのは、結局のところ自分に自信があるからだ(中略)マネは闘牛の儀礼的役割をはっきりと理解していた、それは生と死の上演、犠牲者と抑圧者の闘いであり、その役割は突然入れかわる可能性をはらんでいる。

マネ(引用者撮影)↑

マネはアストリュック宛ての書簡で、再び、「画家たちの画家」とベラスケスを称え、「絵画における自分の理想の実現を見出した」と書くほどに心酔していた。近代画家の祖マネをしてここまで言わせしめた、その真意はどこにあるのだろうか。マネがベラスケスに霊感を抱いたのは、スペイン的な題材だけでなく、《笛吹き》(オルセー美術館)や晩年の《フォリー・ベルジュールのバー》(ロンドン、コートドール美術研究所)など、下書き風の「バラバラの色班」から絵画構造や空間感覚に至るものであった(中略)ベラスケスを最初にヨーロッパに向けて発信したのは同じくスペインの宮廷画家ゴヤである(中略)《ラス・メニーナス》はその後も多くの画家を虜にし、ピカソも一九五七年(《ラス・メニーナス》誕生の三〇〇年記念の翌年)、五八点の変奏的ヴァリエーションを描いている。それはフーコーが言う古典主義絵画の完成を一つ一つ、解体しようとするピカソ流の実験であった(中略)ベラスケスの家系は謎に包まれている。彼は自らも、本当の出自を表明していないばかりか、私的な書簡や芸術論、見解の類をまったく残しておらず、その人生は無味乾燥とすら映るであろう。こうした冷徹で慎重な生き方、環境への距離というか異常なまでの沈黙は何を意味しているのだろうか(中略)彼が真に下級貴族の出であったとすれば、国王愛顧の王室画家を務めながらも、なぜ、王の私室取次係のような属吏からスタートして王室画家にして廷臣という、二足の草鞋の困難な人生を敢えて選んだのだろうか(中略)なぜ、ベラスケスの家系は純粋なキリスト教徒で、貴族たらなければならなかったのか(中略)王室画家になってからの異常なまでの寡黙ぶり、頑ななまでの沈黙は生来の彼の気質に帰せられ、作品をとおしてしか自己を語ろうとしないベラスケス一流の「生き方」と解釈されてきたが、真実は、平民でポルトガル系ユダヤ教徒の家系という出自のゆえに、権謀術策が渦まくバロック的宮廷社会を生き抜くにはそうした生き方しか選択の余地がなかったのではなかろうか。

天才には知性か好奇心か、どちらが必須なのだろう? エレノア・ルーズベルトなら、それは好奇心だと言っただろう。彼女は1934年に、こんなことを言っている。「子どもが生まれるとき、母親が妖精に、最も役に立つ才能をこの子に授けてください、とお願いできるとしたら、それは好奇心だと思います」。実際、最近の研究でも、好奇心が幸福や豊かな人間関係、人しての成長促進、人生の意味の向上、そして創造力の向上に結びつけられている(中略)詩人のシャルル・ボードレールは1863年、「天才とは自分の意思で取り戻した子ども時代にすぎない」と結論づけている。


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