後悔の日々にあたたかい光を分けてあげられただろうか。
私は人の半生を聞くのが大好きで、それを聞ける絶好の場として飲み会が好きだった。子供ができる前は、誘われた会社の飲み会はほぼ全て参加し、オジサマ達の武勇伝をたくさん聞かせてもらった。
聞いてもらえる側も多分嬉しい。だから、昭和のオジサマ達は焼酎の割り方がなってないとか何だかうるさかったけれど、結局はそんなこともできないのかと呆れながら教えてくれた。そして、自分達の若い頃は…と始まる。
食事なんかそっちのけで、ビール片手に話を聞く。中でも大好きだったふぅさんの半生は、印象深い。鼻歌まじりに、「俺はいつ死んだっていいんだよ。」と冗談とも本気ともつかないことを言いながら、昼食後にたくさんの薬を飲んでいる人だった。
若くして工場長を経験し、仕事も遊びも絶好調の日々。今はほとんど聞くこともない時代を感じる仕事、交換手だった女性と結婚。2人のお子さんを授かり、ますます仕事にも熱が入った。単身赴任ばかりで、別の土地でまた工場長を務め、その土地の祭など地域のイベントにも一生懸命参加していた。
「俺は社長になるはずだったんだよ。今の社長だって俺の同期だからね。あいつより色々仕事したよ。」というのが口癖だった。
下の子に脳の病気があることがわかったとき、3人目を授かった。ふぅさんは自分が単身赴任ばかりで側にいられないため、奥さんが一人でこなさなければならない負担を考え、3人目を産むことを許さなかった。奥さんは3人目を産むことを許されなかった悲しみで心が病んでしまい、自ら命を断った。
それからふぅさんは、子供と生活するために、今までの業績、社内評価をすべて捨てて、転勤のない仕事をするために異動した。家事育児、通院の付き添い、仕事、すべてを一人でこなし、後悔の日々。だけど、今更どうにもならないことなので、ヘラヘラ冗談を飛ばしながら日々を送っていた。
ヘラヘラした面しか知らなかった私は、飲み会でふぅさんの一面を知り、後悔の日々に少しでも楽しいことがあればと思った。
ふぅさんが定年を迎えるとき、社内で今までの仲良くしてきた人たちを調べ、私は話したこともない人もいたが、定年祝いの会のお誘いメールを送った。快く参加してくれる人達とともに、数十人集めて会を開いた。似顔絵のプレゼントや全員の記念写真。
こじんまりだったが、社長だったら味わえないほのぼのとした楽しい会になったと思っている。
ふぅさんが退職して数年後、深刻な病気になったらしいと噂を聞いた。社内のふぅさんと親しい人から、電話番号を聞いて電話してみると、ふぅさんは元気そうな声で答えてくれた。
あぁ、大丈夫だ。と思ったのも束の間、「息が苦しいから少ししか話せないよ。」と言われた。
「今はご飯もあまり食べられないし、もう、骨川筋衛門だよ。」
「またまた。適当なこと言って。」
まるまる太っていたふぅさんだから、想像も出来なかった。
そろそろふぅさんの息が荒くなってきたので、
「とりあえず、ふぅさんの元気そうな声が聞けてよかった。」
「ありがとね。」
と言われ電話を切った。
それから、2ヶ月後、ふぅさんの訃報の知らせを聞いた。話によると、私と話した数日後に容態が悪化し、即入院となったようだ。社内で最後に話したのは、私だった。
まるまる太って、ヘラヘラ冗談を言っている記憶しか残っていないから、ふぅさんがこの世にいないことが信じられなかった。同時に、ようやく奥さんに謝れるねとホッとした気持ちにもなった。
ふぅさんは今どうしてるかな。もうすぐ、最後の電話から2年になる。ようやく涙が浮かんできた。
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