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西部劇「ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯」_ 生き急いだあいつと、無為に生きながらえた俺と。

無念、という言葉が、この世には存在する。
なぜ、命を奪われた。 なぜ、命を奪った。 という無念が。

アメリカ西部開拓時代の保安官、パット・ギャレットの一生において痛恨の無念が、当時21歳のビリー・ザ・キッドを射殺したことだった。
「血まみれ」サム・ペキンパーが、その道行を映画化した本作。
かつて「ワイルドバンチ」で情け容赦ない無差別殺戮を描いたこの男が、こんどは、ただひとりのアウトローの死、それを殺した保安官の無念を、描く。


物語は1909年、老境のパット・ギャレットが、つまらぬ諍いを理由に、背後から撃たれる所から、始まる。
刹那、パットが走馬灯で見るのが、1881年、ビリーを殺した年のことだ。
1909年、パットが「死んだように生きてきた余生」つまりセピアの世界は、
1881年「キッドがいた、世界が輝いていた、最後の西部のきらめきの時代」つまりカラーの世界へと、瞬時に遡るのだ。

その二人は最良の親友、そして最悪の敵同士。一人は悪名高き伝説のガンマン、無法者ビリー・ザ・キッド(クリス・クリストファーソン)。もう一人は、かつてビリーと命を共にし、法を守る保安官パット・ギャレット(ジェームズ・コバーン)。伝説的人物ビリー・ザ・キッドとパット・ギャレットの物語を、豪華スター共演とボブ・ディラン(本人もビリーの相棒エーリアス役で出演)の素晴らしい音楽にのせて、サム・ペキンパー監督が描ききった傑作。その伝説が、新たに編集されて蘇る!監督自らが残したノートと、製作者たちの鋭い洞察に基づき再構築された本作品は、アクションとキャラクター描写、暴力と悲哀という相反する要素が、ペキンパーが望んだ完璧なバランスの上に成り立ち、ようやく真の完成を見た。

ワーナー・ブラザース 公式サイトより

ウィリアム・ボニーことビリー・ザ・キッド。
1859年、NYで生まれたビリーは、12歳の時母親をからかった男をナイフで刺し殺したのを皮切りに、西部を渡り歩く無法の生活へと足を踏み入れていった。

1881年、21歳の時、気づけば彼は完全なアウトローとしてかたっぱしから悪行を重ね、ニューメキシコ一帯を恐慌に陥れていた。
かつては無法者にしてキッドの旧友だったパット・ギャレットは、保安官に任命され、ならずもの ビリー・ザ・キッド射殺の命令を受ける。


西部の終焉を前にして、変わった男と、変われない男。

お話は簡単。
21歳で 21人を殺したと謂れるアウトロー、ビリー・ザ・キッドが逃げる、それをシェリフのパット・ギャレットがひたすら追いかける、以上。

元来、パットとビリーは旧知の仲、同じ西部のならず者、自由気ままに生きる者同士だった。それが、たもとを分つことになる。

機を見るに敏なパットは、もうすぐ大西部の時代の終わりがやってくるのを察して、保安官サイドに鞍替えする。
パットは身にまとったぼろを捨てて、パリッとしたスーツを着る。長身・やせ形の男が全身黒づくめとなる:まるで死神のような佇まい。そして友情を捨てて「人殺しの」ビリーを付け狙う。

対して、合いも変わらずぼろを纏ったままのビリー。
彼は、お世辞にも、美形とは言えない。演じるクリス・クリストファーソンは、長髪と口髭がトレードマークの男。その二つを剃っては、どこか物足りない顔に見えるのは、当然。(松本零士作品におけるトチロー といった感。)
精悍さとか老成とかを感じさせない顔(そして、時々見せる締まらない笑顔)が、「時流に任せてる甘ちゃん」という印象を与えないこともない。

対照的な二人。 だけど不思議な縁に結ばれたパットとビリー。
好対照の二人が「引き寄せられて、接触し、破局を迎える」までの旅路が、丁寧に、叙情的に描かれる。


会いたくない、でも会ってしまう。

なぜか、ビリーは必死で逃げようとしない。
遠く離れた土地へ脱出することを試しもしない。
旧友と親交を温めたり、牛を盗んだり、人を殺したり、あいも変わらず、ホームグラウンド周辺をぐるぐる回り続ける。まるで、パットに自分の在り処を見つけてもらいたいかのように。

なぜ、ビリーは死に急ぐ真似をするのだろう。
おそらく彼は、人生の終わりが危険なほど近づいていることを悟っていて、だからこそ、ちょっとでも人間の愛と同情を求める気持ちが以前よりも強くなっていたのだろう。だから危険を顧みず、他人と会いたがる。
隠れたり進んだりする最後の日々は、ビリーにとって緊張の日々であったに違いない。パット・ギャレットが自分を仕留めるまで絶対に諦めないと知っている。
それでも、懸命に、1日1日を生きていく。

パットもまた緊張状態に置かれていたと想像するに難くない。
彼は、確実に訪れるビリーとの遭遇は一方の死、もしくは両者の死を意味すると悟っていた。
「どうして殺さなくちゃいけないんだ」
そう思いながら、「慎重に」ビリーを追いかける。あたかも、少しでもビリーと会う瞬間を遅らせようとするかのように。


しかしいつまでも戦いを避けてばかりはいられない。
ある日、ついに二人は出っくわす。旧友キッドをパットは己の手で殺した。
それで、おしまいだ。 秩序を乱すならず者がひとり減った。 一件落着だ。
しかし、パットの心の中には一生残る無念と、「長すぎる余生」だけが残った。げんに、キッドを撃ち殺した後の彼の顔は、悲痛に満ちている。


本作の原題は 「Pat Garrett and Billy the Kid」
つまり、パット・ギャレットとビリー・ザ・キッド、二人が主役ということだ。
どっちが良いとか、どっちが悪いかとかという話じゃない、
かつての友に殺される男の悲劇、かつての友を殺す男の悲劇。
それぞれの旅路が自由と開放に満ちているからこそ、重力に引っ張られるような因縁、無念はより深くなる。悲劇的だ。
だからこそ、パットの呆気ない死、キッドの呆気ない死が、むしょうに心に残るのだ。


※本記事のトップ画像は、ビリー・ザ・キッド 本人の写真を
Wikipedia Commonsから引用したものです。

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