“神様は見守ってくれますからね。” The Night of the Hunter”(1955)
童話とは本来残酷なもの。そして不気味なものだ。ヘンゼルとグレーテルは暗黒の不気味な夜の森を彷徨い歩く。
『狩人の夜』は、まさにその暗いイメージに充ちている、悪夢のような童話だ。
天を仰ぐこの男、男は右手に”LOVE”、左手に”HATE"と刺青をしている。未亡人を殺しては、「主よ、次もまた未亡人ですか」と天に向かって語る偽伝道師だ。
偽伝道師ハリー(演:ロバート・ミッチャム)は、獄中で居合わせた男ベンから、強盗殺人で得た大金を隠した話を聞く。
「大金の在り処は子供たちが知っている!」
伝道師・パウエルは、出所後さっそく行動を開始する。
口八丁手八丁で、河の傍の一軒家に住むベンの妻ウィラに取り入り、後釜に座る。「善良な隣人」の振りをして。
そして、誰も見ていない影で、ベンとウィラの間に生まれた2人の子供たち、男の子のジョンと女の子のパールを苛め抜く。どこに宝物はあるのかな?と。
訝しんだウィラも自分の手で殺し、ジョンとパールを孤立させ、苛め抜く。
「お前たちの言葉を信じるものなぞいないんだ」と。
耐えかねたジョンは「命だけは助ける」との言葉を信じて、金の在り処を白状する。ありがとうと言って、彼は大金を手に入れ、口封じのためジョンとパールを今度は殺そうとする。
川べりをひたすら逃げる、親なき2人の子ども。その背後をひたひたと影のように伝道師が追う。逃げ場なし。 このままでは悪魔の一人勝ち、高笑い。果たして、この悪魔を討ち果たす天使など、この世には居ないのだろうか?
いや、「悪魔よ去れ」と真正面告げる天使は、確かに存在する。
サイレント期の大スター、リリアン・ギッシュ演じるレイチェルおばあちゃんがそれだ。
ガキを引き渡せと要求する宣教師に、ぴしりと告げる、
ともすれば独善的に捉えかねない一言。しかしこの言葉は不思議な説得感を持つ。大スター:リリアン・ギッシュのことばだからだ。
レイチェルおばあちゃんは、訳ありで逃げてきた子供2人を、理由も聞かずに招き入れる。いっけん萎れて見えるこの花は、実はものすごく強い根を張っている。往年の大監督D・W・グリフィスのもとで、氷結している氷の上に寝るなど、命がけの撮影と言うほかない「安全」とか遥かに凌駕する経験に裏打ちされた、演技の落ち着き、重々しい美。
たかが俗物、卑怯千万で口ばかりの殺人鬼の何を恐れるというのだろうか。このアメリカのおばあちゃんは品があって、愛くるしくて、なによりカッコいい。
「子供を引き渡せ」甘い言葉も、執念じみた要求をも斥けて、彼女は西部の男さながら、銃を持って悪の伝道師に立ち向かう。老いた体に構わず、窓際に寝ずの番をしてまで。
そして最後には、この悪魔から子供2人を護ることに成功する。
悪魔が去った後、レイチェルおばあちゃんは私たちに向けて、やさしく、語りかける。 「善悪の見分け方」を、このおばあちゃんは、さんざ怖がらせてくれた子供達に、教えてくれる。
最後はこうしめるのだ。
abide:〔場所に〕とどまる endure:〔苦痛・痛みなどに〕耐える
ここではともに自動詞として機能すること
直訳すれば "風は吹き付けるし雨は冷たい、でも風も雨もそばにいてくれる、そして守ってくれる" 意訳したのが本記事のタイトルだ。
まとめると、
セックスに対する異常な嫌悪心を露わにする。まるで眠らず、「十字軍行軍」ほか己を陶酔させる賛美歌を歌う。聞こえの良い言葉ばかりを口にし、周囲をたぶらかす。その最終段、化けの皮を明かした後は、悪魔の本性を見せる、手負いの獣のような唸り声をあげて、周囲を威嚇する。鉄壁の自己正当化で他者に対して閉じている、神の名の下に犯罪を犯す偽伝道師:ロバート・ミッチャム。
ミッチャムの誘う闇が深いからこそ、リリアン・ギッシュの放つ光もまた強く輝くのだろう。最後の戦いは、善と悪の壮大な対決。そう言わざるを得ない、美しい叙事詩だ。
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