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破滅の映画「愛の嵐」_消せない傷痕、不幸せに身震いするふたり。

挑発的で退廃的な映画は、いかがかな?
この映画は 陰鬱なメロディと映像に始まる。

オープニングから流れるテーマ曲が誠に素晴らしい。オーボエの哀愁を含んだ音色がヨーロッパの持つ陰鬱さを見事に感じさせてくれている。そして、全体的に色調を抑えた映像に実にマッチしている。作品中所々に流れるピアノ・ソロ・バージョンも素晴らしく良い。

さて、あらすじは。


ウィーンでホテルのフロントマンとしてしがなく働くマックス(ダーク・ボガート)は、ある日ホテルに宿泊した指揮者夫婦を見て驚く。この指揮者の妻こそ、マックスが第二次世界大戦中に収容所で弄び慰み者にしていたユダヤ人の少女ルチア(シャーロット・ランプリング)だったのだ・・・

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そして、悲劇が始まった…。
再会した二人は、堕ちる所まで狂喜と愛欲の日々に溺れていくのである。

愛し合う2人。「愛してる」とマックスは言うが、ルチアは何も答えずにキスをして口をふさぐだけ。男は「愛」を口に出し、女は「愛」を口に出さない。つまり男は愛を知っていて(誰かに愛を求め)、女は愛を知らない(誰に対しても愛を求めない)のである。

二人の過去に何があったのか。 身の毛もよだつ過去だ。
この人はかつて少女の頃、ナチスの強制収容所でマックスのペットであり、その退廃的な数々の行為に居心地の悪さを感じないように順応していったのである。(トレイラーに映る観覧車のシーンは、彼女が拐われる前:何も知らずに幸福だった頃の記憶だ。)
ナチス崩壊後に解放され、今の夫と出会い、平穏な日々を過ごしていたのだが、なんの運命の悪戯か、マックスと13年ぶりに再会する。
かつてペットとして培われた本能が蘇り、ひたすら食欲と性欲の欲求を満たそうとする。飼い主も、それに応える、かわいがる。

「忘れた過去が― 再び蘇えった、亡霊が 再び私を支配しようとしている 私はあの声と肉体から 逃げられない」
マックスは悪びれずに独白する。 
悔悟の念もなく、独りよがりに愛を叫び、ルチアを慰み者にする、この吐き気を催す邪悪:マックスも、この愛玩動物に、魂を食われている。
ふたり、静かに、堕ちていく。


二人の奥底にあるのは、孤独感だ。
少女だった頃を永遠に奪われたルチアは、言うまでもない。
マックスは、かつての仲間たち=元親衛隊員たちの(在郷軍人会的な)強固なつながりの恩恵を受け、嘘偽りの仮面をかぶって、こっそり生きてきた。こっそり集まっては、『ジーク・ハイル!』の名の下に敬礼し、憂さを晴らす。
他方でそれは「自分がナチだとバレるのではないか」という恐怖感と孤独に押し殺された13年間だった。
人間的感情を奪われた少女と、人間的感情を捨ててきた中年男。
再開して初めてふたりは、「自分らしさ」を取り戻し、いちばん幸せだった頃=ナチスの収容所時代の思い出に耽ることができる。マックスにとって、それは、厳つい制服に身を固めていた青春期だ。

ダーク・ボガート(1921-1999)は黒髪のイギリス人なのだが、本作ではナチスの残党を演じる:ナチス親衛隊の制服が不思議と似合う。

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じっさい、彼は第二次世界大戦中はイギリス軍将校として戦争に参加しており、(アンネ・フランクが命を落とした)ベルゲン・ベルゼン強制収容所に辿り着いた最初の連合国将校の一人でもあった。
この時の感想を彼はこう記している。
“The gates were opened and then I realised that I was looking at Dante's Inferno” _まるでダンテの描く地獄そのものの光景だった、と。


孤独の隙間を埋めるかのように、必死になって愛し合うふたり。恍惚というもの。次第に彼らは、いまが戦中なのか戦後なのか、分からなくなっていく。
当然のように、回想シーンが「唐突に」劇中何度も挟まれる。

たとえば前半、実際のバレエダンサーが演じる一親衛隊員が、仲間のナチス将校達の中でグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」を舞うシーン。昂った彼は制服を脱ぎ捨て、全裸で踊り出す。
彼の踊りの躍動感と恍惚感に対して、ナチ将校たちは無感動に眉一つ動かさない。スポット・ライト係のマックスも、例外ではない。

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物語後半、彼ら将校が振って沸くハイライトシーンが挟まれる。

ルチアが、自分が憎むべきナチ帽、長手袋、そして上半身裸のサスペンダーのズボン姿で、唄を歌いながらのナチス将校達のための余興をさせられるのだ。

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がりがりで貧乳でたれ乳。しかしこれこそ、10代で強制収容所に入れられている栄養失調と重労働の中でなお美貌を失わない少女そのもの。彼女が踊る姿は妖艶で、退廃的としかいいようがない。
加えて彼女が歌うのは、「Wenn Ich mir was wunshendurfte」。同時代のドイツを代表する歌手:マレーネ・ディートリッヒの大人すぎる持ち歌だ。

鍛え上げられた=ナチズムが尊んだアーリア的な一流のバレエと、
ゆっくりとまどろんだ=ナチスが排斥した退廃的なダンスの、見事な対比。
そして、マックスが(彼の仲間たちが)心震わせるのは、後者という皮肉。だから、マックスはルチア=退廃の化身だけを見つめて、うっとりしているのだ。


さて、次第に過去と現代の分別がつかなくなっていくマックスは、親衛隊員の仲間たちから詰問される。「いつルチアに告発されても、おかしくない(そこから俺たちも芋蔓式で捕まりかねない)」と。
マックスは答える、自分は夜警(Il portiere di notte、英語ではNight Porter)だと。お天道様の下を、自分を堂々と偽って歩けるような人間ではないのだ、と。
無為に生き長らえるより、今この瞬間を真に生きていたい=ルチアと愛し合いたい、のだと。

マックスは仕事も辞めてしまう。旧・親衛隊員らのネットワークは、マックスの行きつけの食料品店を閉め、彼のアパートの電気も止める。最後通牒だ。
逃げも隠れもしない。マックスはナチス時代の制服をクローゼットから取り出す。ルチアは収容所に入る前の愛着のワンピース…ロリータな衣装を身につける。アパートを出て、手をつないだふたりは日中の通りを堂々と歩く。戦争の悪夢が姿をあらわす。ふたりのあとを、銃を隠し持った御仲間がつけていく。

やがて、ふたりは、町外れの橋の上にたどり着く。後ろを向いているふたりの表情はまったくわからない。不安か恍惚かそれとも。
二発の銃声。 転がる二人の死体。死顔もわからない。
許されない罪、同情の余地はない、勝ち逃げだ、ストックホルム症候群だetc…
断罪を求める声から遠く離れ、「自分らしくあれた」戦争の青春の痕を残して、映画は終わるのだ。

本記事の画像はCriterion公式サイトから引用しました。



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