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映画「ビッグ・シティ」_60年代、早くもサタジッド・レイは"女性の社会進出"に踏み込んだ。

トリウッドやボリウッドほか所謂「マサラ・ムービー」が席巻する以前:かつて日本におけるインド映画といえば、サタジット・レイの文学的で芸術的な、岩波ホールで上映されるような映画そのものだった。
今回はそのうちの一つ、1963年に公開された「ビッグ・シティ」を紹介したい。都市の生活と家族の価値観が衝突する様子を描き、現代社会における女性の地位と役割に焦点を当てた、今見ても全く古びないテーマだ。

60年代前半、カルカッタに住むとある三世代同居のMazumdar一家。眼鏡をかけて生真面目そうな夫Subrataは銀行員。専業主婦のAratiは、経済成長はすれど激しいインフレ、夫の父母の扶養の前に、家計の経済的な困難に直面する。
夫の収入だけでは生計を立てることが難しいとわかったAratiは、人づてに「人手が足りない、仕事をしてみないか?」と、訪問セールスマン職のオファーを掛けられる。誘われた日の夜、「働きに出てもいい?」と夫妻で相談、しているつもりのシークエンスが見事だ。何もできないと自己卑下するArati、社会進出をやんわりと冗談気味で否定するSubrata、本質的に妻のことに無関心なSubrataが台詞と役者視線に表現されている。インドはもちろん、いまの日本でも一部ふつうに起こっている自然な風景。

Aratiは、最終的にセールスウーマンとして働く決断をする。妻が働きに外に出るということが何を意味するか、よく分かってはいないが、とりあえず目出度いとSubrataはAratiと食事の中で祝う。お手伝いさんたとえていわく、まるで「花婿と花嫁のよう」に。
当然、Subrataの根回し一つしないので、その他の家族は大反対。姑のBaniは拗ねるし、愛するAratiは母と口もきいてくれない。

Aratiの初出勤の日。先に仕事に出たSubrataは「みさえが初パートに出かけた、ひろし」状態。上の空。それはともかく、ここで初めてAratiは、化粧をする。リップとつけぼくろひとつで化ける、Arati。

ここは、日本人でも「ドキッ!」とさせられる。


上司や社長の覚えもよく、仕事は順調、収入も得て家計も安定、いいこと尽くしだ。家庭内の喧騒から離れてAratiの気持ちも生き生きとしてくる。
もちろん、サタジッド・レイが、そんな安易に話を進めるはずがない。ここから、全く予想もしていなかった、しかしロジカルな怒涛の展開なのだ。

まず、Subrata以上に抵抗というかサボタージュを公然と行うのが、Subrataの父Priyagopalに同じく母Sarojiniに息子Pintuだ。唯一の理解者?であるはずのSubrataも「自分の知らない妻の姿を見て」不安に駆られ、やんわりと、Aratiに仕事を辞めてほしいと告げる。
口紅をつけずに、辞職を告げに会社のオフィスに向かうAratiは、しかしそれを伝える前に実の上司から、エリアマネージャーのポジションを提案される。
他方、Subrataの勤め先の銀行はまさかの取り付け騒ぎで倒産。ボーッと突っ立っていた夫は、預金が回収できずに殺気だった群衆にボコられる一幕も。
逃げ出してなお、放心状態のSubrata。

なおも上司とやり取りを続けていたAratiは、電話でSubrataから一転「失職した、働き続けてほしい」と懇願される。働くことに「責任」がのしかかることを理解し、歪む妻の顔。電話を切れば、思わず感情的になって、Aratiはポジションと引き換えに上司に昇給を要求。(幸いに通る)
Aratiが家に帰っても、家庭は修羅場。
Subrataは腐っても管理職だったので、我が息子の勤め先だからと信用し銀行に預金していたPriyagopalにグチグチ問い詰められる。「お前はダメ管理職だったんだな」と暗に人格否定する一幕も。さすがにかっとなって擁護するAratiとネチネチ問い詰めるPriyagopal。今更働きに出ている事実をPriyagopalに虫明されてAratiは「働くとは楽しいんです」と、今の気分とは真逆の理由で、抗弁。 Baniは学校を辞めると言い出し、Pintuはぐずる。家庭は修羅場。


不機嫌に不安に働き続けるAratiの前に、終盤、さらにもう一つ、別の構図の問題が突きつけられる。
社長は「優秀なベンガル人=夫を家系で支えるArati」のため、Aratiの同僚Edith:Anglo-Indianの人間を「家族が病気と言っているが、嘘をついているのだ」と言って、馘首しようとする。
ここでAratiの怒りは爆発する。怒りの対象はずばり、

  • Edithが一家の大黒柱として懸命に働いていた(そして働きすぎて病欠していた)事実に反して「用済み」などと心無い言葉をぶつけたこと

  • 女性のセールスマンは使い捨てが効くという、社長の魂胆が台詞から透けて見えたこと

  • 自分とは別の民族の人間だから軽く扱ってもいいという社長への偏見も見えたこと

つまり、「働きに出る女性」の存在自体が、軽く扱われている事実に対する怒り、であることが、よくわかる一幕。

同僚のEdithが首にされたのは許さない、と社長室で対峙するArati。抗議に対し社長は謝罪をしない。だから、許せないと辞表を出す。まさか辞表を出すとは…と社長は敬称を付けて呼ぶ。見苦しく。眼差しの切り返し。
もちろん切り出したArati本人も精神的に揺らいでいる。階段を降りるときの視線の揺らぎ、がカメラに同期。さっきまでの凛々しい表情が、歪む。

自分の意志で仕事を辞めたとSubrataに告げるArati。画面の外、中、夫の眼差し。妻の眼差し。切り返しのショットが画面に強さを与える。
Subrataも一連の体験を通じて大きく変わった。さて最後、Aratiに告げる言葉とは?

まとめると本作は、Aratiが家庭と仕事の間で葛藤し、都市生活の厳しさと、女性が仕事を持つことによって生じる社会的な変化を探求。Aratiの独立心や自己実現のための闘いが描かれ、女性の地位向上の象徴として映し出されていることに成功している。
ここに、手渡しによる貸し借り、生活苦の話など、「カネ」を前面に出すことで、画面の強度をさらに上げている。
60年代にいまにも通じるテーマを描いていた恐るべきサタジッド・レイの慧眼。繰り返すようだが、今見ても全く古びない傑作だ。

本記事の画像はCriterion公式サイトから引用


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