「私が歌えない、と他人は言うかもしれないけれど、誰も、私が歌わない、とは言いやしない。」_"Florence Foster Jenkins"(2016)
エド・ウッドの様に、世の中には「才能が欠落しているために、夢に賭けた、ヒトの二倍も三倍もの努力や愛情が空回りする」愛すべきヒトビトが存在する。フローレンス・フォスター・ジェンキンス(Florence Foster Jenkins)もそのひとり。
以下、ChatGptから引用。機械が作成した客観性が担保されているはずのテキストなのに、なぜだか、容赦ない物言い。
努力に賭けられるお金が足りず資金調達にあくせくしたエドと違って、フローレンスの場合、努力に賭けるお金がそれこそ湯水のようにある(それでいて、対価を支払っているので、周囲に迷惑はかけていない)のが、さらに一層、タチが悪いと言えば、わるいか。
まさにこの「1944年にニューヨークのカーネギーホールで行われたジェンキンスの公演」を山場に置いた、メリル・ストリープが彼女を演じる伝記映画「マダム・フローレンス!夢見る二人」より。
一言で感想を述べれば…
グローリアス!あえて音痴を演じるメリル・ストリープ愛しや。
致命的な欠陥を抱えながらソプラノ歌手になる夢を「見続ける」フローレンスの楽天性に癒される。
彼女にとって音楽は人生そのもの、なくてはいけないもの。だから、「夢は捨てない」という後ろ向きの姿勢ではなく、「夢を見続ける」という前向きの姿勢で、カーネギーホールでの公演に向かっていく。
なぜそこまで、夢に対して前向きで真摯なのか?
劇中、彼女が梅毒であること、治療で髪が抜けてしまったため人前ではカツラを被っていること、その病と歳のために後先長くないことが示される。
だから歌うのだ。長い忍従・努力を通して今の楽天性が培われたことが垣間見える所に、我々はマダムを強い人間だと思い、愛おしく思い、何より感情移入することができる。
時に買収・サクラなどあの手この手を講じ、時に傍で支え、その楽天性を陰ながら支えるシンクレア(ヒュー・グラント)も素晴らしい。どちらかというと堅物のシンクレアに対して、飄々としたコズメの対比も活きている。
そんな彼女が念願のカーネギーホールのステージに立つ前、自身の決意を述べた台詞から引用。
夢見たカーネギーホールでの公演の終わった夜、マダムは夢見るように眠る。
彼女が自分の頭の中で思っている、彼女自身の天使の歌声(つまり、メリル・ストリープそのひとのうたごえ)で、天使となって、カーネギーホールで歌う夢を。それは、なんと切なく、なんと美しいのだろうか。
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