見出し画像

「私が歌えない、と他人は言うかもしれないけれど、誰も、私が歌わない、とは言いやしない。」_"Florence Foster Jenkins"(2016)

エド・ウッドの様に、世の中には「才能が欠落しているために、夢に賭けた、ヒトの二倍も三倍もの努力や愛情が空回りする」愛すべきヒトビトが存在する。フローレンス・フォスター・ジェンキンス(Florence Foster Jenkins)もそのひとり。
以下、ChatGptから引用。機械が作成した客観性が担保されているはずのテキストなのに、なぜだか、容赦ない物言い。

フローレンス・フォスター・ジェンキンス(Florence Foster Jenkins)は、アメリカ合衆国の社交界の女性で、20世紀初頭から中頃にかけて知られた人物です。彼女は主にニューヨーク市で活動し、オペラ歌手として知られていますが、その歌唱スタイルは独特で、才能に乏しいとされていました。
ジェンキンスは裕福な家庭に生まれ、幼少期から音楽に親しんで育ちました。彼女は音楽の才能を発揮することを夢見て、若い頃から歌唱の訓練を受けました。しかし、彼女の歌唱力は一般的なオペラ歌手の水準からは程遠く、音程やリズムに欠陥があるとされていました。
フローレンス・フォスター・ジェンキンスは、1930年代から1940年代にかけて自身のオペラ歌手としてのキャリアを築きました。彼女は自身の演奏会を開き、社交界や一部の音楽愛好者たちから支持を受けました。彼女の演奏会はしばしば笑いものとなり、招待客たちはその独特な歌唱スタイルを楽しむことがありました。
特に有名なのは、1944年にニューヨークのカーネギーホールで行われたジェンキンスの公演です。この公演では、彼女は数々のオペラアリアを熱狂的に歌い上げましたが、その歌唱はプロの音楽評論家や一部の聴衆から批判されました。一方で、彼女の公演には喝采もあり、彼女の歌唱スタイルに対する理解も見られました。
フローレンス・フォスター・ジェンキンスの人生とキャリアは、彼女の独特なアプローチと才能の限界に関する興味深いエピソードで満ちています。その後、彼女の生涯はスティーヴン・フラースの戯曲や映画などで取り上げられ、彼女の独自の音楽のアプローチが再評価されました。

努力に賭けられるお金が足りず資金調達にあくせくしたエドと違って、フローレンスの場合、努力に賭けるお金がそれこそ湯水のようにある(それでいて、対価を支払っているので、周囲に迷惑はかけていない)のが、さらに一層、タチが悪いと言えば、わるいか。
まさにこの「1944年にニューヨークのカーネギーホールで行われたジェンキンスの公演」を山場に置いた、メリル・ストリープが彼女を演じる伝記映画「マダム・フローレンス!夢見る二人」より。

一言で感想を述べれば…

グローリアス!あえて音痴を演じるメリル・ストリープ愛しや。


致命的な欠陥を抱えながらソプラノ歌手になる夢を「見続ける」フローレンスの楽天性に癒される。
彼女にとって音楽は人生そのもの、なくてはいけないもの。だから、「夢は捨てない」という後ろ向きの姿勢ではなく、「夢を見続ける」という前向きの姿勢で、カーネギーホールでの公演に向かっていく。

なぜそこまで、夢に対して前向きで真摯なのか?
劇中、彼女が梅毒であること、治療で髪が抜けてしまったため人前ではカツラを被っていること、その病と歳のために後先長くないことが示される。
だから歌うのだ。長い忍従・努力を通して今の楽天性が培われたことが垣間見える所に、我々はマダムを強い人間だと思い、愛おしく思い、何より感情移入することができる。

時に買収・サクラなどあの手この手を講じ、時に傍で支え、その楽天性を陰ながら支えるシンクレア(ヒュー・グラント)も素晴らしい。どちらかというと堅物のシンクレアに対して、飄々としたコズメの対比も活きている。

そんな彼女が念願のカーネギーホールのステージに立つ前、自身の決意を述べた台詞から引用。

Florence Foster Jenkins: People may say I couldn't sing, but no one can ever say I didn't sing.

夢見たカーネギーホールでの公演の終わった夜、マダムは夢見るように眠る。
彼女が自分の頭の中で思っている、彼女自身の天使の歌声(つまり、メリル・ストリープそのひとのうたごえ)で、天使となって、カーネギーホールで歌う夢を。それは、なんと切なく、なんと美しいのだろうか。



この記事が参加している募集

映画感想文

この映画の話は面白かったでしょうか?気に入っていただけた場合はぜひ「スキ」をお願いします!