見出し画像

食べられなくなった玉子焼き

 おふくろの元気だったいちばん近い記憶は、ぼくが二十代後半の秋だった。親元に近い施設へ引っ越したばかりだった。
 うっすらと残る会話と想像をシャッフルすれば、面会へ来てくれたおふくろと秋場所の予想を楽しんだ気がする。

    養護学校を卒業したとき、地元の施設には空きがなかった。
憲法に憧れていたぼくは、ボランティアに支えられながらの大学への聴講も模索したが、実家の経済状況と施設以外のイメージが湧かず、鈴鹿山脈のふもとで七年あまり過ごす。
   初めて恋愛を経験したが、良い思い出はほとんどなく、養護学校時代を過ごした丹波の山あいへ帰ってきたのだった。

    車なら四十分ほどで着く。毎週のように通ってくれた。
    あのころ、おふくろとの共通の話題は相撲と食べ物ぐらいだった。
おふくろは帰り際につぎの土曜日に面会に来れそうなことと、差し入れのリクエストをぼくに訊ねた。
 経済的に苦労していたおやじとおふくろを気遣って、お醤油と砂糖で真っ茶色に焦げた甘すぎるほどアマイ玉子焼きと答えた。
祖母からおふくろへ引き継がれたなつかしの一品だった。

 七十歳近くなっておやじもおふくろも同じ居酒屋で働いていたから、あの頃はいたく遠慮ばかりしていた。
 いまから思えば、もっとあまえておけば良かった。

    三~四日後の早朝、夜勤のスタッフが熟睡しているぼくを揺り起こした。深夜、おふくろが息を引き取ったという。
 目覚めの意識ははっきりしていた。けれど、なんの感情も湧いてはこなかった。
 特例として、施設に車を出してもらった。出発するまで準備の慌ただしさはあったけれど、あいかわらず淡々と支度を整えた。
「オレは冷たい人間ではないのか」と、疑ってみたりもした。

    おやじとおふくろが借りていた一室に到着すると、部屋の奥に布団をかけられ、横たわっている姿が見えた。車いすを押してもらい、表情を確かめられる距離まで近づくと、ほんとうに眠っているような穏やかさだった。

 突然だった。
 早朝、おふくろの悲報を伝えられてから動くことがなかった感情が一気に噴き出した。
 五分ほど泣きじゃくったあと、ぴたっと気持ちは静まった。
 それから、出棺まで何を考えることもなく、ぼんやりと時間を過ごした。
    差し入れのリクエストを訊ねる記憶が新鮮すぎて、現実を受け容れられなかったのだろう。その反動が来たのかもしれなかった。

    とはいえ、他人の視線が気になるぼくらしい情景を思い出す。
    葬儀が終了するまで、施設の人たちには多くの心遣いと配慮をしていただいた。
 車いすの乗り降りや大便など、一室に泊まることは難しいだろうと、早朝と夜の送迎を施設から提案された。本当にありがたかった。
    施設への帰り道、スタッフから現実に戻るための提案があった。形式的な内容ではなかった。
「きっと、ごはんもノドに通ってないやろ、わたしらも夕食まだやし、ドライブインに行かへんか?」
 たしかに、昼過ぎに巻きずしを何切れか口にしただけだった。
食べるよりも、ぼんやりとしていたかった。

 いつのまにか、空腹だった。
 スタッフの案じる想いと、ぼくの体感はかけ離れていた。
 「つらい気持ちはわかるけど、がんばって食べな、明日も朝からお葬式に出なあかんしなぁ」
 とても、ありがたかった。その一方で、空腹感と言葉の距離に笑いがこみ上げてきた。
    ぼくは心境を気づかれないように、ゆっくりとエビチリ定食を味わった。

 あくる日、納棺されたおふくろはアパートの一室での表情と変わらず、とても穏やかだった。

 最後の最後まで、おやじが積み重ねた苦労を背負った人生だった。
これでホッとできたのではないかと、ぼくは思った。

    出棺のとき、急に涙がこみあげてきた。けれど、霊柩車が見えなくなると、すぐにぼんやりとした気持ちにもどった。

    おふくろが亡くなったことを実感したのは、九州場所の初日だった。
放送のはじまりを告げる振れ太鼓がきこえた途端、おふくろの顔が浮かんだ。
    それから、幼いころ何度も深爪をされてイヤだったことや、結核のために長期入院したおふくろに初めて面会に行ったとき、庭越しの姿を見て泣きじゃくったこと、奇跡的に退院して自慢の玉子豆腐をつくってくれたこと…、いろいろな思い出がこみあげてきた。

    幼いころの思い出の数々と同時に、取り返しのつかない後悔におそわれる。
    おふくろの長期入院をきっかけにした施設生活で、幼いぼくは、家庭の事情を背負うようになった。
 まわりの大人たちは、ほんとうにやさしかった。
けれど、いっしょに生活する同じ年代の一人ひとりとの会話が困難な中で、食事やトイレやお風呂や…、を世話する人の顔色をうかがうようになっていった。

 高校野球が大好きだった。甲子園へ行ってみたかった。でも、家族には言い出せなかった。
 大学の聴講生をあきらめたのも、思いの根っこには「迷惑をかけられない」があった。
 晩年は、ギリギリの生活が続いた。無理を重ねて、おふくろは急死した。
もし、ぼくがいつもベストの選択を試みていたら、深い心労に苦しんでいたかもしれない。
 
 けれど、もっと心配をかければよかったのではないだろうか。もっとわがままを言ってほしかったのではないだろうか。
 
 以前、ある女性とおつき合いしていたとき、「妊娠したかもしれない」と告げられたことがあった。
 たまたま、子ども時代に施設へボランティアとして来ていたヘルパーさんに話すと、「家庭を持つと人格が拡がるで」と喜んでもらった。
結果は妊娠ではなかったし、家庭を持つことにもいたらなかった。

 当然、ぼくには親としての実感がない。
 ただ、行動に移さないまでも、相談程度はすればよかった。自分自身の意志を確かめながら、毎日と将来を決めるべきではなかったのだろうか。

 おふくろは、誠実さと律義さのあふれる人だった。
 ぼくの生きかたはどう映っていただろうか。
元気なうちに、自分自身が納得して生活している姿を見てほしかった。

 取り返しのつかない後悔の一方で、もうひとつの納得しながら暮らす姿を感じてもらえたのではないだろうか。
 二十歳を過ぎたころから、優柔不断な自分自身とつきあうことができるようになった。他人の顔色を伺う臆病さが、いとおしく思えるようになった。
 たくさんの友人に恵まれながら、うまく世渡りするところは伝えられたかもしれない。
 それなりの安心感を届けられたのではないだろうか。

 ぼくからみたおふくろとの関係性の評価は、八十点ぐらいだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?