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 試合時間は残りわずかになっていた。
真っ赤なユニフォームがグランドを縦横無尽に駆けめぐり、数えきれないほどのトライを重ねていた。

 真っ赤なユニフォームのひとりがゴールキックを蹴り終えるまで、日のあたる枯芝のあちらこちらで、青いユニフォームの選手たちが首をうなだれたり、空を仰いだりしながら意志を持つことを放棄してしまっていた。

 そのとき、ひとりの選手がくしゃくしゃにかすれた声をふり絞った。
「おれたち、なんのために三年間厳しい練習に耐えてきたんだ。うつむかないで最後までやりきろう」
 キャプテンだったに違いない。
声の疲れは隠せなくても、チームメイトを鼓舞しようとする想いは、ゲームをあきらめた一人ひとりに向かって、ひたむきなタックルを試みているように、ぼくには聞こえた。

 その日、ぼくは高校ラグビーの観戦にひとりで花園まで足を運んでいた。
優勝候補の地元の高校は、メイングランドの試合ではなかった。
電動車いすでは、仮設のスタンドには入れないグランドだった。
 それでも、ゴールライン近くの平坦な場所へ案内され、ノーサイドのホイッスルが吹かれるまで、間近で息遣いの伝わるシーンも何度か繰り返されながら、めったに体験できないナマのラグビーのエネルギーに没頭させてもらった。

 ゲームはワンサイドの展開になってしまった。
ただ、終盤のキャプテンの立ち振る舞いには目頭が熱くなってしまった。
 キャプテンの意志が全員の胸を打ったわけではなかった。
けれど、多くのチームメイトは顔を上げ、声を出してポジションへと走って行った。
 ぼくまで奮い立たされた気分になった。
それと同時に、選手たちのキャプテンの想いに応えた動きに、心の風通しがよくなったみたいだった。

 幼いころ、高校野球が一年を通しての指折りの楽しみだった。
ずいぶんませていたぼくは、小柄な選手が中心の田舎のチームが強豪校を倒すゲームが、いちばんの醍醐味だと信じていた。
 特に、昭和四十六年、夏の大会の磐城高校・田村投手の活躍には興奮の連続だった。
小さな大投手は絶妙のコントロールで、プロ顔負けの大柄で強靭な体力と高度な技術を身につけた強豪校の選手たちをきりきり舞いさせ、チームは準優勝旗を手にすることができた。
 ぼくは、一日中テレビとラジオにかじりついていた。

 いつごろからだろうか。東北や北陸やむかしは野球どころではなかった地域からも、甲子園で勝ち進む学校が出場するようになった。
その多くは私立で、都道府県を越えて甲子園をめざし、優秀な逸材が集められることが常識になった。

 ぼくの気持ちは、ねじれ現象を起こすようになった。
誰だって、自分の得意な分野を活かして生きていけばいい。
思春期に親もとを離れる経験は、将来のための貴重な財産になるに違いない。
一人ひとりの背中にエールを送りたくなった。
 実際に、ぼくのすぐそばにも野球留学で苦労した青年がいて、周囲に心遣いのできる人に育っている。
もちろん、一人ひとりの人格は違うけれど。

 一方で、高校野球に対する熱さが薄らいでしまった。
甲子園が開幕しても、テレビは部屋の片隅でビニール袋をかけられて、片づけられたままになっていった。
とうとうこの夏は、決勝戦まで一試合もフルで観ることはなかった。
ラジオも、いつもの番組をいつものように聴いていた。
 戦術的な特徴はあっても、どの学校も同じように見えてくる。
ふるさとの町から出場しても、「どうせ地元の子なんかいないやろ」などと考えてしまう。
 このねじれを持てあましたまま、夏も過ぎて行った。
頼みの五十才を過ぎても百四十キロを超えるスピードボールを投げる名物ヘルパーさんの母校も、ここのところ甲子園出場からは遠のいてしまっている。

 ただ、自分の好みを手放せば、一人ひとりの生き方の自由は最優先されるべきだと思う。

 花園のグランドの枯芝の上で出逢ったキャプテンは、ラグビーをつづけているのだろうか。
本音を話せる友人にめぐり逢えているだろうか。

 春の選抜に結びつく秋の地方大会が行われている。
いまのところ、名物ヘルパーさんの母校も勝ち進んでいる。
 花園のあのキャプテンを思い出すと、また甲子園を楽しむ気持ちになった。

 あまり感動を連呼されると、ちょっと引いてしまう。
 それでも、久しぶりに決勝戦になると、さみしくなって泣きじゃくっていたぼくに再会するために、来春はテレビ観戦を復活させるかもしれない。
 その前に、無事に高校ラグビーが開催されることを祈りたいと思う。

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