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初めてゼミを休んだ話ーうつの大学生が休む決断をするまで


ゼミを休む―こんなこと、誰でもあることだろう。風邪を引いたり、何か優先したいことがあったり、または単にサボりだったり。大学の講義やゼミの出席は高校までのそれと違って何だが少し曖昧だ。

でも私の"欠席"はそれらとは少し違った。うつ病を患ったためだった。

こんなしがない大学生のうつ病エッセイを書こうと思ったのは、私の友人にも全く同じ境遇で苦しむ人がいたのがきっかけだ。久々に顔を合わせたときカラカラと無理をした笑顔で笑いながら、「眠れなくて」とぽつりと言った姿が目に焼き付いた。その時の私は上手く言葉が出ないまま別れてしまい、既読が付いたまま返信の来ないLINEの画面を見ながら、今でも彼を救いきれなかったのではないかと後悔している。

それだけでない。私の通う精神科の待合室は近頃私と同世代程の人で溢れている。家族に付き添ってもらっていたり、一人俯いていたり。うつ以外の症状で受診している人もいるだろうが、とにかくその光景を見て初めて『私だけじゃない』と感じたのだ。

だから私は無理をしていたあのときの友人や彼のようにまだ孤独を抱えている人に向けて、一人ではないという意味を込めて自分のことについて語りたい。誰かに聞いてほしいと思う。


私は都内の大学に通う大学4年生だ。地方から出てきて一人暮らしをしている。

周囲と比べると、私は恵まれた環境にいたと思う。小学生のときから塾や習い事にも通わせてもらい、一人っ子であることから両親に大層目をかけてもらった。容姿が特別優れていたり、何かに秀でているわけではなかったが、努力は出来る人間だったためその期待に応えようとひたむきに日々を過ごした。『努力は正義』という言葉を掲げ、高校までは順調に上がっていった。

しかし高校に入り思うように努力が実らなくなっていった。何とか成績上位に食い込もうと勉強をしたが中々順位は上がらない。志望校判定も良くならない。それでも体に刷り込まれてきた『努力は正義』という言葉で自分を叱咤激励し少しずつ成績を上げていった。私が目指す志望校の射程圏内に漸く手がかかった高校3年、私は受験日間近に大きく体調を崩した。それでも諦めてなるものかと挑んだが、結果は惨敗だった。周りには浪人する人が多くいたが、諦めないことが取柄だったはずの私は心のどこかで『もう無理だ』と感じ、浪人せず滑り止めの大学に入学をした。

そのことが反対に『頑張ること』への恐ろしい程の執着心になり、『努力は正義』という大義は拍車をかけていった。あのときの体調不良は自分の体調管理の粗雑さのせいだと深く恥じた。また第一志望に落ちた理由をそのせいにしようとする自分も心底嫌った。もう失敗は許されず、どんな状況であれ何でも1番にならなければいけないと強迫観念に襲われていた。ネット上や書店で就活を勝ち上がるための謳い文句が躍る中、私は将来のためには大学で学ぶ全てを吸収して良い成績を取ることが一番だと妄信し、毎年大学の特待生となるまで勉学に時間を費やした。幸いにも環境や人に恵まれ友人も沢山できて楽しく日々を送れたが、放課後や休日まで課題の時間としてつぎ込む私は友人からの誘いを断りがちであり、あまり気の緩める瞬間は無かった。大学の休み時間で友人や先輩と交わす何気ない会話や趣味であるコンサートに行って好きなアーティストを追いかけることが自分を休められる時間だった。そこで癒されながら、自分の研究を最高のものにしようと学部最後の学年に向けて邁進した。

そんな中、新型コロナウイルスの蔓延により急遽大学4年生となる新学期の始まりは先送りになった。3月頃からゼミはオンラインに切り替わり、一人暮らし先の東京は緊急事態宣言により外出自粛を呼びかけた。学生マンションで一人籠ることになった私はそれでもやる気は潰えることなく、『自粛中だからこそ自分磨きを』『自粛期間中の過ごし方で未来が変わる』等といったネット上の言葉に感化され、持ち得る本やネットから資料を昼夜意気込んで漁った。もう私の頭の中には大学の卒業研究のことしかなかった。

4月から5月になっても、大学校舎は開かれることはなく、新学期の授業は録画された先生の講義を見ることから始まった。疲れてはいたが好きなアーティストのオンラインでの活動を応援したりゲームをしたりして気持ちを切り替えられていたため、まだ心は死んでいなかった。これまで取れるだけの単位を取っていたため今学期必要な単位が少なかったのも幸いだった。

しかしそれはより卒業研究に悪い形でのめり込む要因でもあった。3日に1回の買い出し、そして1週間に1度のバイト以外は外出しない生活が続く。それ以外の予定は、オンラインでのゼミと講義が一つ。昨年から熱心に取り組んでいた卒業試験もオンライン上での受験となり、参考資料が閲覧可能になったことから勉強の有無に関わらずあまり差がつかないものとなった。『誰よりも優秀であれ』と気を張っていた私の心は徐々に疲弊した。

6月ごろから徐々に私はおかしくなっていった。資料を読んでも読んでも、理解できない。はじめは私がまだ未熟である故だと考えていたが違った。数ページ、たった数行の雑誌のコラムすら、理解できない。文字を読み内容をその瞬間理解できても頭に入ってこないのだ。焦りが募った。それならば一度アウトプットをしてみようと手を動かすが、文章も何もかも上手くまとめることができない。私は建築意匠のゼミに在籍しており建物の模型を頻繁に作るのだが、それもできない。目の前に何かしら形をつくってみても『こんなものはダメだ』と何の基準もないのに心の中の私が冷酷に見下した。

ゼミも上手くいかなくなった。どれだけ画面に向かって相手に話しても上手く伝わらない気がした。そもそも自分で自分が何を言っているか分からない。他の同期は悩みながらも自分なりにレジュメを作り教授と協議している。それなのに、私は自分でもよく分からない薄い内容のレジュメを画面共有したまま、「自分でもよく分からなくて」とへらりと笑うことしか出来ない。そんな自分が酷く愚かしく思えて、ゼミ終了後は涙がとまらなくなった。

唯一受けていた授業はグループでディスカッションしながら行うものだったが、これも上手くいかなくなっていった。班のリーダーになった私は必死に言葉を発してまとめようとするが、空回りして結局他のメンバーに迷惑をかけてしまう。授業後はいつも「ああ言えばよかった、ああすればよかった」と後悔に苛まれた。そして同じメンバーへの申し訳なさが募り、もっと次は頑張らねばと毎日繰り返し反省ばかりした。

オンラインと現実

おかしくなるほどに、『もっと頑張らなくては』と思った。今この特殊な状況で苦しいのは皆同じなのだ。慣れないオンラインを駆使して外出出来ない中でも皆工夫して頑張っている。私だけ疲れたと泣くのはまるで幼児だと自分で自分を卑下した。息抜きだった大好きなアーティストの追っかけやゲームは徐々にしなくなっていった。バイトも休みがちになった。掃除や洗濯の時間も無駄なように思えて疎かになった。食事や睡眠以外は全て大学の研究や講義の準備に時間を費やすようになっていった。「まだ、私は皆に追いついていない」「皆頑張っているのだから、私ももっと頑張らなければならない」。

部屋はひどい荒れ様だった。デスクや床には資料や模型の材料が一面に散らばる。微かな音も嫌がり窓は締め切られ、紙屑の真ん中に座った私は延々とパソコンのライトをただ浴びていた。手を動かしても、言葉を綴ってはデリートする無意味な時間が過ぎた。『努力は正義』という言葉は擦りきれ、それでも言葉が染み込んだ体はそれが私の存在証明であると思いこみ、涙を流しっぱなしにしながら本のページを捲り、パソコンのキーボードを打った。

それでも憩いの時間はあった。緊急事態宣言が解除されてから、同じく一人暮らしをしている友人と週に一度ほど会って勉強会を開くようになった。それぞれやることは異なっていたが、「辛いよね」「苦しい」と言い合うだけで少し気が楽になった。彼女は外部の院試を目の前にしていたため私よりもずっと辛い立場にいた。友人が心が折れそうになりながらも踏ん張っている。その姿を見るだけで私も頑張ることができた。立場や悩みの大小は違っても苦しさを抱えるのは一人ではないと実感できることは私にとって救いだった。

またLINEでも何人かやり取りをする同期の友人たちがいた。皆それぞれの事情を抱えながら前を向いていた。『大変な状況になっちゃったね』『一人暮らし大変だよね、大丈夫?』と気にかけてくれる友人もいた。直接は会えないけれど、LINEでのささやかなやり取りがとても嬉しかった。

きっと、必ず、報われるときが来る。努力は返ってくる。私は皆に追いつけなくなりつつあるのだから、早く追いつかなくては。


しかしそんな踏ん張りも徐々に効かなくなり、次第に自分の意思とは裏腹に早く過ぎる時間に恐怖を覚えた。カラカラと『努力』が空回りするのにゼミや授業は決まった時間にやってくる。一度立ち止まりたいのに、周囲は止まらない。私は夜眠りにつくことが心底怖くなった。眠ってしまえば、また頑張らなければならない次の日がやってくる。更に朝に絶望するようになった。目が覚めてしまった、ここから起きてまた頑張らなければならない。

友人たちとも段々疎遠になっていった。ゼミの活動に自分の卒業設計、就活や院試等々、皆それぞれの日々に追われている。元々私は誰かとLINEを頻繁にやりとりする人ではなかったこともあり、スマホの通知はどんどん少なくなった。

そんな中でも途切れず行われる勉強会が私は嬉しかった。直接誰かに会うどころか素の状態で誰かと話す機会はそこしか残されなかった。顔面蒼白になりながらノートにしがみつく彼女はそんなことを思う暇はなかっただろうが、それだけ努力をする友人を見て私はなけなしの気力を振り絞ることができた。

それでももう限界などとうに過ぎていた私は一日中不安に押し潰され、それを消したいがために手を動かすも紙や画面上の言葉はつるつる目の上を滑っていく。その内手が動かなくなってきた。「もう無理だ」と心の中の誰かが呟いていた。

その誰かが、高校受験で滅多打ちになった“かつての私”と重なった。受験に惨敗し、浪人という選択肢もあったのにも関わらず“諦めた”私になるのはもう嫌だった。

今通う大学には何の文句はない。むしろ人に恵まれた学生生活を送れ、こんな私でも気にかけてくれる友人や先輩に出会え、多くのことを学ばせてもらえた。故に大学院も同大学に進むことに決めていた。

ただ、“諦める”という一点において、私は二度と同じことをしたくなかった。何の言い訳もせず、堂々と過ごしたかった。努力だけができる私にとって、何かを理由に“諦める”ことは禁じ手だったのだ。アイデンティティが無くなる気がした。頑張れない私では、もう誰も気にかけてはくれず何かに貢献することも出来ず、存在する価値はないのだと。

7月上旬、もう手は動かなくなりつつあった。ただ泣きながら、脳内でもう一人の自分が頑張れよ、と叱咤していた。ゼミや講義には何とか参加していたが、その頃の私の研究のレジュメや講義でのディスカッションの様子は滅茶苦茶だった。笑って誤魔化そうとする自分に吐き気を催しながらも何か生み出そうとして何も生み出せず、そのことに絶望しながら泣き、夜が来る恐怖に怯え、朝に絶望する毎日を学生マンションの六畳ほどの一部屋で過ごしていた。


そのとき、地方から母親がコロナの危険を冒してやって来た。私からのLINEの様子がおかしくなり、やり取りが途切れたのがきっかけだった。仕事を休み小さなスーツケースを持ってやってきた母は私の家にやって来るなり一言、「病院に行こう」と微笑んで言った。

母親に連れられやってきた心療内科での診断は、適応障害からくるうつだと告げられた。そうか、とぼんやりしながら聞いていた。私はまた、高校のときのように病気になってしまったのか。処方された睡眠薬と抗不安薬を片手に、私はホテルで久々に母と二人で寝た。

「無理しすぎたんだよ。疲れてるなら、もう大学休んでいいからね。」そう母は言って地元へと帰っていった。毎日連絡をすること、と一つ付け加えて。本当に久々に過ごした母との時間は、何ヵ月かぶりかの休息のように思えた。だが次第にその休まりは消えていく。そしてもう一人の自分が呟く。「病気を言い訳にするな」「休んだ分早く動かないと“皆”から取り残される」「頑張れない私に何の価値があるのか」。結局のところ、私の頭の中で“大学を休むこと”は霧のように消えてしまったのだ。

薬を飲めば大丈夫だ、そのとき抗不安薬と睡眠薬は無敵の存在に見えた。これを飲めば絶望から掬い上げられ、眠ることが怖くなくなると。実際は違った。薬では抑えきれない絶望と不安と焦燥が心から溢れだした。無理やり睡眠薬で眠るものの朝は絶望でベッドから暫く起き上がれなかった。もう擦りすぎて血が滲んだ『努力は正義』という言葉から這いつくばるようにパソコンにしがみつき、ゼミと講義に参加し続けた。画面に映る同学年や教授はいくら話しても遠くにいるように感じ、逆に“できない自分”を蔑まれているような妄想にとりつかれた。オンライン上で笑って談笑し、課題を乗り越えていく同級生たちに追いつけず息が詰まりそうだった。

抑うつ状態は以前よりも進行した。自分を責めるひとりごとをするようになった。もう趣味をする体力もない。課題すらこなせないのだ。そんな自分に何かを楽しむ資格はない。けれどそんなボロボロの自分を晒すことは恐く、相変わらずオンライン上のゼミや講義では出来ない自分をへらへらと笑って誤魔化し、SNSでも何も変わらないように振る舞った。

しかし限界は限界だった。ある日唯一人と会える勉強会で、私と友人は無言で互いの作業をしていた。私の手は相変わらず動いていながらも何の成果も生み出さない。そのとき横で試験勉強をしていた彼女が一言「もう無理」と呟いた。彼女の手が止まって、私も止まった。彼女は目に見えて疲弊していた。青白い顔は前にも増して白くなっていた気がする。友人の手元には問題が書かれた紙束が広がっていた。疲れた、と友人から呟きが漏れた瞬間、私も疲れたと認識した。そのとき、どっと“無理”の波が押し寄せた。

「もう、動けない」

パソコンを動かす手が止まった。友人がこちらを見た。「私、うつになっちゃったんだ」。何故だかそのときするりとその言葉が口から出てきた。ただでさえ自身が疲弊しているのに私からこんな言葉が出てきてきっととても驚いたであろう友人は、それでも私のとつとつとした言葉を聞いてくれた。そうして私が話し終えると暫くの沈黙の末、遊びに行こう、と話した。「お互い疲れてるし、もう今日は無理だよ。遊びに行こうよ」。その言葉に涙が出そうになった。受験勉強で忙しい彼女の邪魔をしているようで申し訳ない気持ちで一杯だったが、そのとき深くは聞かず連れ出してくれた友人への感謝は忘れない。本当に優しい人だと思った。そのときに、私は初めて自分がもう動けない状態だと認識した。

動けないと分かってから、私の手はついに完全に止まった。もう疲れた、何をやっても上手くいかない、もう動けない。そこで何もかも諦めきれればよかった。しかし諦めの悪い性格により『努力は正義』という呪いは解けない。絶えずもう一人の自分が「まだ間に合うから立て」と罵詈雑言を叫びながら心を叩きつけた。動けないまま迫り来るゼミや講義の時間に怯え、より頻繁に泣くようになった。時間が分かるもの全てが怖くなり、テレビやラジオを全くつけなくなった。カーテンを締め切り、何時だか曖昧になるようにした。勉強会は立ち消えになり、友人とは疎遠になっていった。最後に付き合ってくれたこともあり、私のことでこれ以上迷惑をかけてはいけないと思いがあった。また友人自身も私のことをそっとしておくべきだと気遣っていたのかもしれない。

ともかく私は完全に一人になった。六畳の一室で何もできずに疲れはてているなか、あるべき姿の形をした影が部屋中を動き回り、早く自分もそうすべきだと囃し立てている気がした。

初夏、とあるニュースがスマホの画面を横切った。ある俳優の自死を伝えるものだった。そのニュースが偶然目に入ったときの衝撃は未だに忘れられない。特にファンであったわけでもないが、テレビで見かける度に素敵だと思っていた方だった。通知からニュース記事に飛ぶと、大体の現場の状況が記されていた。そこから私は“死”を衝動的に強く感じてしまった。

あんなに魅力的だった人が亡くなってしまったのだ、遥かに魅力が劣り今や唯一の取り柄であった努力もできなくなった私がこの世に生きる意味は何なのだろう。

そのときは食糧が尽きて買い出しに出ていた。ふらふらと帰宅して呆然と食材を冷蔵庫にいれながら、私が今を生きる意味を考えていた。無駄に今を生きていて、その証拠に食材を買って冷蔵庫に入れている。その行為すら無意味のように感じた。

台所に置かれた包丁に目がいった。柄を握りしめる。汗が絶え間なく流れた。もう疲れて動けない私が生きていたって仕方がない。もういっそのことー

刃を身体に当てようとしたとき、ふと両親のことが頭に浮かんだ。母には会えたけど、父には会えてない。祖父母にも、友人ともまだ顔を合わせていない。

会いたい。そう思った瞬間刃が生々しく目の前に感じ、予想される痛さに初めて震えて私は包丁を下ろした。そして号泣した。死ぬ思いきりがなかった。家族や友人に会いたかった。死ぬのが怖くなった。同時にここでも思いきれなかった私にもう一人の自分は「何をやっても中途半端」と怒った。やはり、自分はどうしようもない人間なのだと漠然と思った。

両親が駆けつけたのは翌日の深夜だった。死を思わせるメッセージを最後にやりとりを途絶えさせてしまったからだ。母は泣きながら一緒に帰ろうと言った。生きてくれればいいから、もう地元に帰ろうと。その次の日は丁度講義の日だったが、自分の出番が終わってカメラを切った瞬間涙を絶え間なく流す私に「もう十分頑張ったよ。だから必要なものだけ持って帰ろう」と手を握った。私は頷いた。漸く、“休む”という二文字がはっきりと浮かんだ。

その後、私は初めてゼミを休んだ。これまでの大学生生活では一度も休んだことがなかった。私は教授に「申し訳ありません」と自分が限界である旨の連絡をした。何度も文章を書き直した。きっと、犯罪を犯した人が自首する気持ちはこんな感じなのだろうなと思った。それほどまでに、ただゼミを休むことに強い罪悪感を感じた。私がたった“ゼミを休む”という行為を決定するまでにこれほどまでの労力と時間が必要だった。

教授が理解を示してくださったのは本当に幸運だった。私を侮蔑することはなく、むしろ忙しい中でもお気遣いの言葉をかけてくださった。今でも心から感謝している。教授の提案により、私はそれ以降の講義並びに2ヶ月間ゼミを休むことにした。8月のことだった。

私は地元に帰ることとなった。高校受験で失敗して以来高校の友人とは殆ど縁を切ってしまったためほぼ実家の自室に籠る生活が続いたが、東京のバイト先でお世話になっている方々や何人かの大学の後輩や先輩から心配の言葉を貰ったのは純粋に嬉しかった。どう頼ったらいいか分からない私を東京に私が戻るタイミングでご飯に連れ出してくれたり雑談のLINEをくれた。外出や返信には理由の無い恐怖や不安が付きまとったが、勇気を出して引っ張られる方に向かえば相手はごく普通に言葉を返してくれた。私は本当に、恵まれていると思う。

今でも実家に滞在し、たまに下宿先の掃除や用事を済ませるためにそっと東京に戻り、また実家で一人“自粛”をする日々を過ごしている。ここで完全復活してバリバリ研究のラストスパートをかけている、と言うことができればよかったのだが私は未だに自分を責め立てる声に怯えながら暮らしている。相変わらずテレビやラジオはつけられない。オンラインで冷や汗をかきながらへらへら笑って誤魔化していた恐怖が抜けずゼミには参加できていない。日ごとに卒業の二文字が迫り、理解者であるはずの教授からの通知は恐怖になっている。外を歩けば、あの自粛期間の閑散とした街並みはどこへやら、マスクをしながらも以前のように人の溢れる社会に私だけが取り残されていると足がすくむ。“私”はまだ、あの学生マンションの一室で耳を塞ぎ、目を閉じている。恥ずかしながら、全く克服できていない。

こんなエッセイを書いている場合ではないだろう。さっさと研究を仕上げろ。そもそもうつになっている場合か。もう一人の自分は叫んでいる。それでも、私と全く同じ状況に陥ってカラカラと笑う友人を見て、自分のこれまでの日々を書きたいと思った。もし、まだ一人で恐怖に怯える人がいるならば、一緒だと伝えたい。“休む”という行為が出来ずにいる人がいれば、その選択肢をそっと差し出したい。同じだ、もしくは似ていると感じている人がいれば互いにお疲れ様と意味もなく労いあいたい。そう思ってつらつらと書いてみた。

歪んだ街01

以前、SNSで憂鬱な心境を文章や絵などで吐露する大学生と、社会の流れに対応出来ないことを叱るリプライを見かけた。在宅勤務やオンライン受講に慣れ人々が新たな生活様式に変えていく中、足を止めたい人、順応できず立ち竦む人はきっと考えている以上に溢れている。だから、「私だけが」と追い詰めることは絶対にないと伝えたい。

私の中にある『努力が正義』という言葉は、恐らく間違ったものではない。努力は素晴らしいものではあるが、意味を違えれば時に呪縛になる。私に必要なのは"休む決断"でありそのための些細な『努力』だった。


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