見出し画像

【注目のM&A案件番外編】トッド・ベーリー率いるコンソーシアムによるチェルシーFCの買収

※先月は国内で面白そうな案件が特になかったので、2022年4月のM&A案件に代わりに番外編をお送りいたします。

1. 案件概要

  • 米国実業家トッド・ベーリー氏率いるコンソーシアムによる英国サッカークラブ・チェルシーFCの買収

  • チェルシーFCは英国内で「ビッグ6」と呼ばれる名門チームの一角であるものの、ロシアの実業家ロマン・アブラモビッチ氏がオーナーを務めており、ロシアによるウクライナ侵攻に伴う英国政府からの経済制裁の対象となっており、公式グッズの販売、選手やスタッフの新規契約、一部の試合の入場券販売などが禁止され、クラブ運営に重大な制約が課せられていた

  • アブラモビッチ氏はチェルシーFC株式の売却額を全て慈善事業に寄付することを表明

  • 売却プロセスはアブラモビッチ氏側アドバイザーである米国M&Aブティックのレイングループ主導でオークション形式により実施、ベーリー氏陣営のアドバイザーは米国大手投資銀行ゴールドマン・サックス

  • ベーリー氏はMLBロサンゼルス・ドジャースおよびNBAロサンゼルス・レイカーズの共同オーナーであり、2019年にもチェルシー買収を画策していた

  • 本件の買収規模は、2020年に米国実業家スティーブ・コーエン氏がMLBニューヨーク・メッツを買収した際の約25億ドル(約3260億円)を上回り、スポーツ界のM&Aとしては史上最高金額

  • 売却代金の決済および株式譲渡は5月下旬に完了の予定

2. 案件規模および取引ストラクチャー

譲渡価額:25億ポンド(約4,000億円)
※別途チェルシーFCへの17.5億ポンド(約2,800億円)の投資を確約
※本件取引に際し、アブラモビッチ氏はチェルシーFCへ貸付ている16億ポンドの債権を放棄

3. 買収候補者

上記以外にも、1次入札には合計20社が関心を寄せたとの報道

4. 案件経過

5. 主要論点

5-1. オークションプロセス(スケジュール)


本件の一番の特徴として、オークションプロセスの開始から買収合意までの期間が一般的なM&Aと比べて圧倒的に短いことが挙げられます。通常オークションを行う場合、以下のようなプロセスを経ることになります。

1.売却意思決定
2. インフォメーション・メモランダム(売却対象の企業に関する詳細な情報を記載した100ページ程度の資料)作成、買手候補によるデュー・ディリジェンス(投資対象となる企業の価値やリスクなどを調査)に向けた情報の整理やVDR(機密情報を共有するためのクラウド)の準備、事業計画(業績の将来予想)の策定⇒最短2か月
3. 買手候補へアプローチ、秘密保持契約の締結⇒最短2週間
4. 1次ビッド実施、簡易デューディリジェンスの実施⇒最短2週間
5. 買手からの初期的意向表明書(法的拘束力なし)の提出およびその評価を実施
6. 最終ビッド実施、詳細デューディリジェンスの実施(キーマンへのインタビューセッション含む)、株式譲渡契約のドラフト配布⇒最短1か月
7. 買手候補からの最終意向表明書および株式譲渡契約のマークアップ提示、およびその評価を実施
8. 優先交渉者を決め、株主譲渡契約を交渉⇒最短1か月
9. 株式譲渡取引

上記で示したタイムラインはあくまで最短であり、私の経験では通常この倍は時間を要するイメージです。そのため3月2日に売却意思を決定し、その16日後には1次ビッドを締め切り、そのまた1か月弱後に最終ビッド締め切りというのは狂気の沙汰だと思います。売手FAレイングループの方々はたぶん2か月間ほぼ寝れなかったと察します(激務で有名な投資銀行ですがオークション案件の売手FAを務めると、複数の買手候補からの様々な依頼・注文を短期間で一手に受けるためこの傾向がさらに強くなります)。

どんなに頑張っても上記のプロセス全部やっていたらこのタイムラインでは買収合意できないはずなので、恐らくは半分くらいは端折ったのだと思われます。IMは準備しなかったでしょうし、DDもかなり限定的な範囲で行われたのでしょう。もしかしたら事業計画すら用意していなかったかもしれません。実際に買収候補の中で、リッケツ家陣営は「通常とは異なる売却プロセスの進め方により、最終提案を検討するにあたっていくつかの問題が解消されなかった」として最終入札を辞退しており、チェルシーFCサイドから提供された情報がかなり限定的であったことが推察されます。

余談ですが今回のベーリー氏陣営のようにコンソーシアムを組んで共同で買収する場合は別途陣営内で株主間契約を締結する必要があります。これは株主の間でガバナンスなど会社運営のルールを取り決めておくものですが、こちらも締結までに相応の労力がかかるためタイトなタイムライン下では相当負担であると思われます。

また本件のオークションで特徴的であったのは最高金額をオファーした買収候補が勝たなかったことであります。報道ベースでは1次入札ではサウジメディアグループの26億6,000万ポンドが最高額であったものの落選となりました。また最終入札では期限後ではありますがラトクリフ氏が42億5,000万ポンドをオファーしたものの却下されいます。

サウジメディアグループについては2つほど理由が報じられています。一つ目が本件がアブラモビッチ氏とプーチン政権の関係という政治的問題が端緒となっていたことから、サウジアラビア王族との関係が近い同社が敬遠された点です。二つ目は同社が本件買収金額の大半を負債(銀行借入など)で調達しようとしたころ、それが嫌われたとのことです。実際に買手候補がどのように買収のための資金を調達しようと検討しているかは、通常のM&Aにおいても意向表明書で記載を求められ、判断材料の一つとされることが多いです(特に現金が足りていない企業やPEファンドなどの場合)。

ラトクリフ氏側については英国政府からアブラモビッチ氏に課せられた経済制裁が関係しています。上述の通り、経済制裁としてアブラモビッチ氏は個人資産が凍結されており、そのためチェルシー株式の売却も本来は制限されるはずでした。英国政府はチェルシー株式の売却に関しては例外的に許可したものの、許可は有限でその期限は5月31日まででした。そのため、アブラモビッチ氏は5月31日までに合意だけでなく、実際に代金を決済し、買手への株式譲渡を完了させておく必要がありました。ラトクリフ氏は1次入札に参加しておらず、4月29日にいきなりオファーを出したことから考えて、恐らくデューディリジェンスは全く行っておらず、株式譲渡契約の交渉もしていなかったと推察されます。アブラモビッチ氏側としてはこの状況から1か月でクロージングまで進めることは困難と判断したものと思われます。なお入札期限後に急に横やりが入ること自体はよくあります(他にも既に入札を終えた会社が期限後により良い提案を出し直すということはもっとよくあります)。

これ以外にも1次ビッドを通過した陣営の顔ぶれから、すでにスポーツチームの運営について経験があることが選好されたと伺えます。

5-2. 株式譲渡契約上の論点


➀株主への配当および経営管理料支払いの禁止、10年間の保有義務
報道によると株式譲渡契約には2032年までの株主への配当および経営管理料の支払いの禁止と新オーナーは10年間チェルシー株式の売却を禁止する旨の条項が含まれていることが報じられています。

買手であるベーリー氏陣営の特徴として、コンソーシアムの最大出資者がPEファンドであることが挙げられます。PEファンドの生業は会社を安く買って高く売ることで儲けているため、いつかは必ず買収した会社を売る時が来ます。またPEファンドは会社を売る前から少しずつ投資額を回収するために、投資先に対して配当や経営管理料を請求するということも一般的に行っています(利益が生まれるほど大きな金額ではないですが)。アブラモビッチ氏としてはこうしたPEファンドの特性によりクラブの安定経営が阻害されることを危惧して上記の条項を含めたものと考えられます。一方で、PEファンドが10年間同じ会社を保有するというケースはほとんど見ることがありませんし、このような長期保有を契約でコミットするファンドは私の経験則ではないと考えております。そのため、新オーナー間での株式の売買については容認するなどの例外で何かしら折り合いを付けているものと推察しております。

②キーマン条項
チェルシーFCにはアブラモビッチ氏の右腕としてチーム経営を担うマリーナ・グラノフスカイア氏という辣腕取締役がいます。直近の記事ではこのグラノフスカイア氏(と現会長のブルース・バック氏)が本件後も留任する見通しであることが報じられています。グラノフスカイア氏は選手の契約交渉からビジネス面まで見ており、文字通りチーム経営を支えていたとも言われており、夏の移籍市場開幕を控える中サッカーチームの経営経験がないベーリー氏陣営から見ればキープしたい人材であることは間違いないと思われます。そのため、株式譲渡契約の条件としてベーリー氏陣営がグラノフスカイア氏が買収後もチェルシーFCに残ることが条件の一つとして提示されていた可能性もあると考えられます。

③表明保障条項
一般的なM&Aの契約交渉で最も揉める論点として表明保障条項というものがあります。簡単に言うとデューディリジェンスで出した情報は会社の事業・資産などについて正確な状態を反映しており、もし情報が間違ってた場合には一定金額を保障しますというものです。ただし全ての情報について保障することはあまりなく、重要なもののみカバーすることが多いため、どの範囲までを保障対象とするか、そして最大保証額はいくらに設定するかで揉めることは約束事です。上述のとおり本件ではロクなデューディリジェンスを行われていないと推察され、買手も不透明な情報をもとに提案を行うことを求められたと思われます。このような条件下では買手から厚めの表明保障を要求されることが想定され、その点どのように折り合いを付け、独占交渉権付与から1週間程度で契約合意に至ったのか不思議であります(アブラモビッチ氏サイドが相当譲歩したか?)。

5-3. バリュエーションおよび債権放棄


本件規模はスポーツ界最高額となる25億ポンドに昇りました。また上述のとおり、本件に際しアブラモビッチ氏はチェルシーFCに対して貸し付けていた16億ポンドの債権を放棄しております。企業価値は株式価値と負債価値に配分されます。そのため、ざっくり説明すると16億ポンドの債権が放棄された場合その分株式価値が上がることになります(本来であれば債権放棄に伴う課税の発生や資本コストへの影響もあるためもっと細かく見る必要がありますが、今回は端折ります)。そのため、アブラモビッチ氏が債権を放棄するか否かは買収候補者が提案内容を検討するうえで非常に重要な要素となっていました(債権放棄をしない場合買収価格はざっくり9億ポンドになり、代わりに返済計画を新たに検討する必要があります)。

本件では5月3日に突如アブラモビッチ氏が債権の返済を要求する方針に転換したと報じられましたが、私はすぐにこれがデマであると気づきました。理由は債権放棄を前提に最終入札を提案してもらっていたところ、急に方針を転換した場合は各陣営提案内容が大きく変わることが想定され、債権を放棄しない前提で入札をやり直す必要があり、先述の5月31日の期限に間に合わなくなってしまうためです。今回はアブラモビッチ氏にレイングループというしっかりしたM&Aアドバイザーが付いているため、そのようなことを考えようものであれば彼らが全力で止めたと思います。

また今回の買収金額26億ポンドが他のサッカーチームと比べてどの程度のものなのか比較してみましょう。会社の価値の目安を図る方法としてマルチプル法と呼ばれるものがあります。これは会社の価値を会社の業績で割り、その倍率を比較するものです。最も一般的な倍率は企業価値(時価総額+純有利子負債)をEBITDA(営業利益に減価償却費を足したもの)で割ったものですが、サッカーチームは基本的に赤字でEBITDAで割り算ができないチームが多いため、今回は企業価値/売上高を比較してみます。以下が上場しているため企業価値のデータが取得可能なサッカーチームになります。チェルシーについては債権放棄分もあるため本件の株式譲渡金額が企業価値と仮定して倍率を計算します。

2022年5月13日時点時価総額ベース、売上高は直近会計年度の実績値を採用、通貨は百万米ドル

ご覧の通り、企業価値/売上高の倍率を比較するとチェルシーFCは平均値や中央値より高めに出ております。また同じイングランドの名門マンチェスター・ユナイテッドよりも高くなっています。これは買手がチェルシーFCのことを他のサッカーチームよりも現在の業績と比べて価値がある(≒成長ポテンシャルがある)と評価した証左とも言えます。とはいえ今回はオークション・プロセスであった手前、入札競争により価値が上振れさすい環境であったことには留意が必要です(恐らくマンチェスター・ユナイテッドがオークションで売却をすれば上表の企業価値よりももっと高くなる)。

5-4. レイングループの起用


最後に、本件ではアブラモビッチ氏側のアドバイザーとしてレイングループが雇われていました。レイングループは確かにこれまでにもソフトバンクによるイギリス半導体メーカー・アームホールディングスの買収や米国通信大手スプリントとドイツ通信大手Tモバイルの合併をアドバイスするなど、大型案件を手掛けた実績もありますが、業界の中では比較的新興勢力でテック業界専門という位置づけであり、その他の名門投資銀行(モルガンスタンレー、バンクオブアメリカなど)を差し置いて本件のマンデートを獲得したことは少し意外でした。

報道によるとレイングループの共同創業者であるジョー・ラビッチ氏が学生時代に旧ソ連に留学経験があるロシア語話者であり、アブラモビッチ氏とは10数年来の友人とのことでした。そのため本件マンデートはその個人的なコネクションにより獲得したと思われます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?