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知的革命の時代に生きる子どもたち;新しい技術がもたらす影響と、大人たちが持つべき姿勢

こんにちは、シュタイナー手仕事教育協会の門野由香子です。

子どもたちは今、農業革命や産業革命に続く、知的革命の時代を生きています。携帯電話や人工知能が教育や子育てに大きな影響を与え、新しい技術が次々に生まれています。これらの技術は、多くの良い面をもたらしますが、その流れに無意識に飲み込まれることなく、一つひとつ立ち止まって考え、子どもたちがどのように付き合っていくのが良いのかと、私たち大人が判断する姿勢を持ち続けることがとても大切な事だと感じています。


今日は、このテーマにぴったりの『歴史、人間性、そして手仕事』という記事を紹介します。20年以上前に書かれた文章ですが、今読んでもその新鮮さは失われていません。

『歴史、人間性、そして手仕事』 

By Carmine Iannaccone
翻訳;門野由香子/ Yukako Kadono

私たちは今、歴史の大きな転換点を迎えている時代に生きています。微細電子工学、情報処理、通信技術の進歩が新しい時代を切り開いており、技術だけでなく、芸術、文化、人間関係、教育、経済、生活スタイル、知覚、宇宙論といったあらゆる分野に影響を及ぼしています。パソコンは私たちの考え方や情報の使い方、行動、交流を根本的に変えました。

一方で、留守番電話やVCR、電子レンジなどのシンプルな技術も、私たちの時間感覚や物への期待値、日常生活に変化をもたらしています。さらに、携帯電話やCD、ポータブルビデオカメラ、デジタル写真などの洗練された技術は、今後も私たちが人間であるという事実に大きな影響を続けて与えるでしょう。

この革命によって、多くの懸念が生じています。良い面もあるものの、大きな変化は目に見えない影響や結果をもたらすことがあります。この「電子時代」を理解しようとする中で、過去の人々が抱えた同じような問題が手本となり、私たちを正しい方向へ導くことができるかもしれません。

約1世紀前の産業革命時には、「機械時代」がタイプライターや自動車、電灯、蓄音機などの発明とともに訪れました。多くの思想家たち、例えばルドルフ・シュタイナー(ウォルドルフ教育の創設者)、ジョン・ラスキン、ウィリアム・モリスは、機械や生産技術の革命が短期的あるいは長期的に私たちの生活に影響を与えることを懸念していました。

機械は高い精度で製品を複製でき、直線や直角、厳密な対称性に基づいた設計で正確に機能しますが、それによってダイナミックで生き生きとした感じが失われてしまいます。シュタイナーらは、機械によって作られた完璧な製品に直面した際、反対に「自然」なものの新しい重要性や価値を見出しました。自然界では、実際にほとんどすべての形状が直角がなく、曲線で特徴付けられます。シュタイナーの美学では、自然で変化に富んだ形がより好まれ、それは彼の初代と二代目ゲーテアヌムのデザインに明確に現れています。

ルドルフ・シュタイナーは機械と機械生産が私たちの生活に与える影響について積極的に議論し、自然に基づいた彼の美学はウォルドルフ教育に大きな影響を与えました。ウォルドルフ学校の建築やインテリアデザインは、できる限り自然な素材を使用し、直線を避けることを心掛けています。これは単に美学的なセンスからだけでなく、シュタイナーの言葉によれば、私たちが暮らし、学び、働く建物は私たちの道徳性に大きな影響を与えるからです。また、芸術や手仕事はウォルドルフ学校のカリキュラムにおいて非常に重要な役割を果たしています。

シュタイナーの美学によると、すべての芸術作品は生きているものが放つ生命力、流動的な美しさ、唯一無二さを捉えていなければなりません。機械で作られたものが一様で規則的であるのに対し、手作りのものは独特の魅力を持っており、規則性がなく、だからこそ美しいのです。手彫りの木のボウルやスプーン、手編みのマフラーや帽子、淡い水彩絵の具でペイントされた壁、ウォルドルフ学校の教室でよく目にすることができる手染めの布、これらはまさにこの感覚を表現しています。

プラスチックなどの人工のものよりも、木などの自然なもののなかに価値を見出すことがこの美学の根底にあります。ウォルドルフ学校では子どもたちの机や椅子は、通常、無塗装の木材で作られており、木目の美しさが際立ちます。幼稚園に入ったばかりの子どもたちは、みつろう粘土や洗っただけの羊毛などの自然素材を手仕事で使用します。これにより、子どもたちは自然界の息づかいを感じることのできる美しさを自分たちの手を通じて体感するのです。

ウォルドルフのカリキュラムでは、手仕事は、機械で作られたものと手作りのものを区別することを教えてくれます。人間の手によって作られた「もの」は、その不完全さの中にこそ人間の尊さがあり、そのことが私たち一人ひとりが、機械ではなく人間であることを証明してくれているのです。

一年生が指編みで円形のマットを作ったり、六年生がパターンから自分の手で作り、布を裁断し、動物を作ったりする時、もちろん間違いは避けられず、何度もやり直しが必要となります。しかしこの過程を通じて、間違うことを通じて、子どもたちは謙虚さを学ぶのです。「謙虚」の語源は、ラテン語で「地球」を意味し、子どもたちが「間違いから謙虚さを学ぶこと」は、自然との関係性の中で人間性が育まれることを意味しているのです。

機械によって完璧になることが、人間から謙虚さを奪ってしまい、それはつまり「自然や地球」から遠ざかってしまうことを意味するのです。シュタイナーやその当時の思想家たちは、機械がこの人間と自然との関係やつながりを変えてしまうことに気づいていたのです。また、子どもたちは手仕事の授業において、人間の絶対的な独自性というものを目の当たりにします。たとえ同じ材料を使い、同じ指示を出され、同じ方法で作業したとしても、15人の子どもがいれば、15のユニークな作品が作られるのです。


シュタイナーの時代の多くの作家たちは、工芸が芸術と同様に高い評価を受けるべきだと考えていました。工芸品には独自の価値が宿っているからです。ウォルドルフ学校でも、この考えが大切にされています。ウォルドルフの11年生(高校3年生)は、製本の技術を学びます。丈夫な紙を繋ぎ合わせ、布でできた表紙をつけた本には、さまざまな絵や詩、散文が記されます。そして、その本自体が美しい存在として、同様に高い評価を受けるのです。

シュタイナーの時代の革新的な思想家たちは、「美学的価値は、美しい芸術作品の中に限定されるものではなく、自然や人間の活動、創造といったあらゆる現象に宿るものである」と考えていました。ウォルドルフ学校のカリキュラムも、この考えを取り入れています。生物学や歴史、数学のような学問分野は、芸術と深く結びついており、その中には必ず調和や秩序が見出されるのです。

ウォルドルフの生徒たちは、すべての教科においてレッスンブックという独自の作品を創り上げます。知識と芸術が見事に組み合わされているノートブックです。そこでは、思考のプロセスと創造性を結びつけ、情報とその保持方法を巧みに調和させることで、学びの質を高めています。
このアプローチにより、生徒たちは事実に対する知識を獲得するだけでなく、その知識を豊かな表現方法で伝える力も身につけるのです。

子どもたちは独自の視点を持ち、複雑な概念を理解し、それを自分たちの言葉や芸術作品に昇華させる能力を養っていきます。こうした経験を通じて、子どもたちの関心は知識そのものだけでなく、知識の持つ意味やそれを表現する多様な方法にも向けられるようになります。

ウォルドルフ教育を受ける生徒たちは、知識の習得と同時に、芸術の持つ無限の可能性にも目を向けています。芸術が文明の進化に深く関与し、社会全体の豊かさや発展に寄与することを理解しているからです。また、芸術が個人の道徳的成長を助け、自己理解や他者への共感を育む重要な要素であることも学んでいきます。


19世紀後半の思想家たちは、機械が私たちの生活に与える影響が、物とその背後にある意味や価値とのつながりを断ち切ることになると考えていたのです。しかし、人間の手に合った道具は、物と価値の世界が再びつながりを持つことができます。この考えにおいて、人間が使う道具は、単なる物質的なものだけでなく、それを用いて人間が自分たちの思考や価値観を具現化する手段となります。道具を使って物を生み出すことで、人間は独自の「誠実さ」を物の中に表現することができるのです。

19世紀後半の思想家たちが主張していたのは、機械ではなく人間の手によって作られたものこそが、物と意味のつながりを保ち、私たちにとって真に価値あるものになるという考えです。それは、人間が自分の心や感性を物に投影し、独自の誠実さを持った表現物を生み出すことで、物と価値の世界を結びつけることができるからです。

万年筆はそのような素晴らしい道具のひとつだと思います。ウォルドルフの生徒たちはボールペンではなく、万年筆を使って文字の書き方を学びます。なぜなら、万年筆は人間の心と物のつながりを目に見えるものにするからです。万年筆の先端はすぐに紙に引っかかるので、書くときには注意力や感覚が必要になります。また、強く押しすぎるとインクがたまってしまい、軽く滑らせすぎると文字が書けないので、バランスや適切さも必要なのです。そして、万年筆はメンテナンスが必要なため、ケアすることの大切さも学べます。このように人間の心と物はつながっているのです。手作業で行われるすべてのことと同じで、万年筆で文字を書くと、こうした心と物の「一体感」を感じなければなりません。そして、それは機械では決して体感できないことなのです。

ボールペンのように便利な道具があるにも関わらず、万年筆のような道具を使うことは時代錯誤という問題を生じさせます。それが時に批判されてしまうのですが、ウォルドルフ学校では、パソコンなどの必需品について幼いうちは生徒に教えていません。(生徒にパソコンを使うように教えるそれは高校生になって、そのようなアクティビティに対しての準備ができてからです。)
世紀の変わり目で、改革者たちが「昔ながら」の方法で物事を行うことを主張するといつも批判されました。一体何が問題なのでしょう。それは昔ながらの方法そのものではなく、人々の新しいものに対する姿勢や期待、新しいものが社会や人々にもたらすものなのです。

人々は、それが単に新しいから、便利そうだからという理由だけで新しいものを何でも取り入れるべきなのでしょうか。それともその裏にあるものをきちんと見極め、他の選択肢を考えてみるべきなのでしょうか。

19世紀の改革者たちは新しい技術や道具を拒絶することはしませんでした。彼らは多様性というものを欲しがっていたからです。彼らはあくまでも、選択肢を持ち、いざとなればそれを批判するぐらいの気持ちでいたかったのです。

新しい技術は人々の新しい姿勢、行動パターン、そして価値観を生み出し、効率的であればあるほどいいというわけではないと気づきました。そして、短期的な、または長期的な影響には気をつけなければいけないと感じていたのです。


シュタイナーや彼と同世代の著名な思想家たちは、機械による大量生産が人間性の喪失、無関心、消費主義といった社会的な問題を引き起こすことを懸念していました。彼らの見解は正しかったのです。現代社会はメディアや電子機器に依存し、技術進歩の速さによって、彼らが懸念していた問題に直面しています。


この観点から考えると、ウォルドルフ教育で生徒たちが得る経験は、今日の世界でも依然として重要であり、欠かすことのできない価値があると言えるのではないでしょうか。


執筆者;
カルマイン・イアナッコーネ氏は、南カリフォルニア大学美術学部の非常勤教授であり、ロサンゼルス・カウンティ芸術高校で絵画とドローイングを教えています。また、パサデナ・ウォルドルフスクールとハイランド・ホール・ウォルドルフスクールに子どもを通わせました。
本記事は、2001年秋/冬号のRenewal誌に掲載されました。




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