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【山行記録】高松山での素敵なお話

高松山へ向かう途中で出会った方のお話が心に残り、そこからデカルトの「我思う、ゆえに我あり」が思い出され、山行中ずっと頭の中をグルグルしていました


はじめに

今回は、高松山と大野山を繋げて歩くコースを計画しました

高松山も大野山も最高の展望台でたくさんの方がハイキングされている人気のお山でした

そして素敵な出会いがあり、思い出に残る山行となりました

観光客用臨時駐車場 

※7時~21時が利用可能

高松山での素敵なお話

1.山北駅を出発して高松山を目指します

山北駅を出発して、すれ違った方が

「何処に登るの?」って

「高…」なんだったかなと考えていると

「高松山」とすぐに返ってきた
「こっちにおいで」

強引だなと思いつつ付いていきました
高松山が見える場所まで案内してくださり
お話が始まりました

「分校があってね…」
「毎日通ってね…」
「中学校前のバス停を左に行くと…」
「下山したら御殿場線の時間を確認してここの温泉がいいよ…」
「あそこのソーラーがある家が… 」

お は な し が終わらない〜(笑)

数分だったのだろうか?
長いコースで先を急いでいたので、申し訳ないですが長く感じました
それでもお話は面白く「いいですね」「大変ですね」と相槌を打ちながら
一通り話が終わったところで、流れるように
「ありがとうございました」とお別れしました

お別れしてから、ふりかえると

  • ほんと楽しそうに思い出を語っていたな

  • きっと素敵な人生を歩まれてきたな

とひしひし感じました

素敵なお時間をありがとうございました✨

2.出会いの後、デカルトの言葉が頭から離れませんでした

デカルト「我思う、ゆえに我あり」

デカルトの言葉

この言葉の解釈はいろいろあると思いますが

例えば、水の中にまっすぐな棒を沈めると曲がって見えるから視覚は信用できないと考える
さらに、夢を見ている時にそれを夢と感じることができないということは、夢と現実は同じなのか?
このように疑えるのもは取り除くと最後に残る信じられるものは1つ
考えることと記憶する存在である我が存在すること、だけになる

というのがデカルトの考え方かなと私は思います

すこし発展させて、
山で同じ景色を眺めても千差万別で考えることが違うと思う
だから私は、

我が良かったと思うことを記憶するのが1つの目的では

と考えます

年を取った時によかったなと思い出せるシーンが多い人ほど幸せな人生

だったのではと思います

良かったなと思う基準は我なんだよな、
それが我ありに繋がると思います

冒頭の方は、ほんと楽しそうに思い出を語っていたな
きっと素敵な人生を歩まれてきたなとひしひし感じました
ここに我ありだったよ、長生きしてください

3.高松山と大野山の写真

山北駅でトイレを借りて出発しました
冒頭の方と出会い、移動して禿げた山頂が見える高松山
高松山は最高の眺望
左後ろに天城山の稜線、手前に大きな明神ヶ岳でひょっこり神山が見えるようになり、尖った金時山と手前に矢倉岳が重なるようになった!右後ろは愛鷹山
大野山も最高の眺望でした
後ろの稜線は右から檜洞丸、離れて大きな大室山、畦ヶ丸山がポコっとあり、次は菰釣山
さくら山山頂から高松山もバッチリで歩いた山を眺めるなんて最高です

山行記録

【YAMAP】2024/1/6 高松山と大野山

記録はフォロワー限定公開のため転載です

あとがき

歩いている時にふと考えが纏まることはないでしょうか?
私は山を歩いていると様々な思考が思い浮かぶことがあります
この日はまさにそのパターンで普段考えもしないことが次々と浮かびました

運動脳なんて本がありますし、運動と脳の働きが関係しているのでしょうか?

ここまで読んでくださったあなたに心から感謝いたします
本当にありがとうございました

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