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Vol.5 何のために学校に行くのか

こちら最終章の予定です。「日本のアタリマエを変える学校たち」(新評論)をあと1ヶ月後に控え、自分にできることをしようとアタフタしている。出版社のページには「言葉も社会も文化も異なる土地に生まれ育った者どうしがつどうインターナショナルスクールは学びの宝庫! 学校観を変える1冊」と書かれている。本当にそうだ。さすが編集者の方は言葉の選び方が違う。
(写真は息子の高校卒業の謝恩会である。最初は誰かわからなかった。楽しそうだから良い!)


何のために学校に行くのか

「学校は行くのがアタリマエ」と言われていた時代ではなくなった。そもそもがフリースクールのような、日本の一条校として認定されていなところに行く子どももあれば、N高のようにオンラインが前提の学校もある。そこにインターナショナルスクールも雨後の筍状態で、文科省は本当に頭が痛いことだろう。その上、国際化という無理難題を言われて久しいが、不登校などの問題が横から急拡大して、あれもこれもできるわけないじゃないか、というのが現場の実際ではないだろうか。

両親が公務員の田舎の家庭の長女だった私は、弟と二人兄弟で、小学校に通っていた。中学校も一緒だったが3学年違っていたため、中学校ではすれ違うことはなかった。別々の高校を卒業して関西に進学した。田舎のアタリマエがそれだったので、そのように進学をしていった。そして自分の息子も同様に成長していくものだと思っていたが、そうではなかった。小学校の頃からよく学校から電話がかかってくる手のかかる息子だった。叱られても叱られても、全く気にすることなく翌日には学校に行く。成績は良くないのに学校は大好きだった。中学生の時もいろんなことがあって何度も職員室に行った。しかし彼はやはり学校が大好きで、何があっても気にせずに学校に行った。台風で学校が休みになった時も、学校に着いてしまった。(これは私も悪いのだと思う。)

高校は3校行くことになってしまったが、どの学校も行くことは好きだった。最後の高校では全寮制なのに教室に行かない学生がいることを聞いてびっくりした。全寮制にも不登校があるのだ、と。我が家の息子は相変わらず、学校が大好きだから、冬でも素足にクロックスで学校に行っていた。

言いたいことは、学校って「子どもたちが行きたいところ」で「安心して友達や先生と時間を過ごせる場所」なのではないか、と。もちろん勉強をする場所ではあるがそれだけの機能ではない。本当にそれだけで良いならオンデマンドのオンラインビデオ授業だけで十分ということになる。いつもの友達と、いつもの先生と、昨日の話の続きをしたり、部活やスポーツや音楽で友達と過ごしたり、先生に質問したり、、、学校に行くと楽しいことがあり、安心でき、自分を成長させ、誰かを助けたりする要素がさまざまあるのが学校という場所であり空間なのだと思う。

そこに外国人の友達がいる場合は、描ける夢がさらに膨らみ、見知らぬ国に行ってみたいと思い、世界がベースとなって学びやビジネスの想像が大きくなる。学校は一つの社会であり、自治区のようなもので、生徒たちでよりよく醸成していくものなのではないだろうか。

自分に「あるもの」で誰かをサポートできる幸せ

障害のある友達がいれば、その人を助けたり、助けられることもあったりして、インクルーシブな環境がみんなで助け合って生きるために必要だとわかる。学校の授業でもプロジェクトでも得意なこと、不得意なことがある。誰もがある程度は自分でできるだろうが、それを得意なことで分散して作業をすればさらに最高のものができるし、互いの学びにもある。自分の得意が誰かを助けて、ありがとうと言われるなんて、そんな素敵なことはない。だからこそ、いろんな人が混ざり合っている方が、自分が助ける側にも助けられる側にもなれて、互いの信頼度がますだけでなく、成果物も成長する。

徐々に変わってきていると言われているが、集合教育で全ての教科を学ぶことにおいては、学び合いや、誰かを助ける・助けられるという機会が少ない。プロジェクト型の学びの中では「考える」ことが増えるから「質問する」「相談する」「議論する」ということも必然的に増えてくる。つまり、二人以上の人で何かをしないと助け合うことはできないので、ドリルを何ページもしていても、学んだ気にはなるものの、自分のためでしかない。仲間が一緒にいる学校でしかできないことが、学校たる所以であろう。

仲間と支え合えばできることが増える

さてさて、学校に行かないとできないこと、という問いになったが、一番大きいのは友達や先生の存在だ。これはもう「その人がいるから学校に行く」子どもたちがほとんどではないかと思う。一人ではできないけれども、友達と一緒にやればできることは沢山ある。そこに、友達とやっても思ったようにできなかったことを先生に聞くと、良いヒントをくれて、そこから答えの端緒が発見できる。そんなふうに考えると、先生も生徒も学校においては仲間なのかな、と思ったりする。子どもたちが自分で学ぶのを後押ししたり、カーリングの箒の人みたいに、滑りやすくしたり、、、親もそうだけれども、それが大人の役割なのかな、と思う。もちろん一人でやり抜く力も大切だ。しかし、一人でできることとみんなでできることがどのように違うものなのか、を学ぶ・体験するのも学校という場なのではないかと思う。なので、体育祭にせよ、文化祭にせよ、去年のマニュアルを見ながら、それをそつなくこなすような仕組みにしてしまうのはもったいないことだと思う。せっかく、自分たちだけでやってみる良い機会なのだから。

誰かを笑顔にできることは強みになる

学校は何のためにあるのか、ということにもつながるのだが、やはり自分が世界平和を担う一員であることを知る場所だと思う。そしてやりたいことを推進したり、その中でも何が自分は好きなのか、を知るのが学校ではないだろうか。残念ながら自分の高校時代は、単に教科書とドリルと模擬試験と大学受験のための学校だったので、非常にもったいないことをしたな、と今となっては思う。しかし、世の中のことを何も知らなかったし、自分が何か特別なことができるとは思ったこともなかったので、その頃の自分に、「各々が特別な人なんだよ」ということを伝えたいし、世界につながる方法をほんの少し教えてあげたい。そこからは自分で動き始めるだろうから。

どの国に行っても、誰かを笑顔にできることは本当にすごいツールを持っていることになる。ある意味武器とも言える。しかしそれは、自分が誰かにそのようにしてもらって嬉しく思い、自分の笑顔を認識できたなら、次には誰かにやってあげる側になるだけの話なのだ。

日本のこれまでのアタリマエで運営されている学校を、一番手っ取り早くアタリマエでなくすのは、外国人の生徒が入ることだろう。英語で学ぶことだろう。教科横断の学びを取り入れ、地域と連携したプロジェクトを行うことだろう。経済的に余裕のある家庭は子どものために海外移住をしたり、あるいは、海外の全寮制の学校に行かせることもできる。しかし、そんなことができる人は少ないし、そもそもが、その必要性を認識していなければ、そんなことはしないだろう。

私が公立のインターナショナルスクール高校を作りたい理由はそこにある。まずは誰もが行ける金額である必要があり、誰もが試験を受ける等の選択ができないと平等でない。今の国際社会において、過去の家庭の経済状況で選べない学校があるのは日本の損失でしかない。

公立のインターナショナルスクール、高校だけでも良いので、何とか各県に一校ずつできないものかと悶々としながら、書籍の販売日を待っている。

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