見出し画像

自伝 ~高校・浪人時代編~

自分の高校時代は基本的にのんびりと過ごしました。

世間ではたまごっち、プリクラ、ルーズソックス等が流行った時代でした。当時はバブル崩壊後のいわゆる「失われた10年」の真っ只中でした。テレビ等の雰囲気はバブルの頃の流れのままで、上の世代の人達の中には景気が悪くなったという認識が薄い人達もいたように見えましたが、学校では先生は「これからの時代は実力を身につけないといけない」と教えている時代でした。また、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が世の中に影響を与えた時代でもありました。

とは言え、先ほど書いた通りテレビ等の雰囲気はバブルの流れのままの時代でした。高校は地元の公立高校で、進学校でした。学年で何十人か国立大学に入る高校で、正直この高校に入れてものすごくうれしかったです。
ただ、高校入試が成功してクリアしたという感覚が強く、実際には高校に入ってからも勉強しないといけないにも関わらず、勉強しなくてはいけないという認識がなかったという状況でした。そのため、当時勉強を全然しませんでした。1年生の時Z会に入ってましたが、全然やりませんでした。解いた問題を郵送するとそれが添削されて返ってくるのですが、こちらが送ってから戻ってくるまでの期間が長く、添削されたものを見てもどんな問題でどういう感じで解いたのかもよく覚えてませんでした。Z会は1年間で辞め、2年生の時は通信教育も塾も入っていませんでした。

部活も全くしませんでした。中学時代は体育会系の部活をやっていましたが、練習は大変だったし、放課後「部活をやってない人はもう帰れるんだよな」と思って過ごしていたので高校に入ったときに体育会系の部活に入ろうという気にならず、週1回行けば良い文化会系の部活に入ったのですが、1年生の1学期くらいしか行かず、その後はずっと幽霊部員でした。なので、高校時代は基本的に勉強も部活もやらずにかなりのんびり過ごしていました。

ゲームはセガサターンやプレイステーション、ニンテンドー64がプレイされていた時代でした。ポケットモンスターシリーズの1作目であるゲームボーイ用ソフトのポケットモンスター赤・緑もこの時代に誕生しました。自分もポケットモンスター緑を買いました。最初の3匹はフシギダネを選びました。プレイステーションは地元では売り切れで、学校が午前中で終わった日に、1人で秋葉原まで買いに行きました。音楽はCDの時代で、シングルやアルバムのCDを買ったりレンタルショップでレンタルしたりしました。小室哲哉プロデュースの曲やビジュアル系バンドが人気でした。

3年生から文系か理系かを選びました。自分は理系のクラスで、数学は当時の数学Ⅲや数学C、理科は物理Ⅱも化学Ⅱもやるクラスでした。遅かったのですが、3年からやっと河合塾に入りました。ここから入っても授業はよくわからず、勉強している時間帯も全く捗りませんでした。河合塾自体は中学時代に入っていたのと同じ塾だったのですが、中学グリーンコースが入塾試験もあって1クラス10人程度の少数精鋭だったのと違って高校グリーンコースただ1つの教室でたくさんの人が授業を受けるシステムでした。

国立大学の2次や私立は数学・英語・物理、それに加えてセンター試験は国語・倫理で受けました。地元の国立大学を受けたのですが受からず、都内の私立大学も受かりませんでした。

高校を卒業する頃には長野オリンピックも開催されました。テレビでノルディックスキーのジャンプやフリースタイルのモーグル等を見たことをよく覚えています。

高校が進学校なので、当然同じ高校の人達と同様、浪人して翌年大学受験することになりました。河合塾は中学時代も高校時代も通った塾だったのですが、浪人したときは何故か代々木ゼミナールを選びました。代々木ゼミナールは講師が人気取りをして代々木ゼミナール側も人気講師をウリにするという感じの予備校でした。サテラインの授業もありました。受験科目は物理をやめて化学に変更しました。

自分の浪人の時代に日本はFIFAワールドカップの本大会に初出場しました。同じ年齢の人達が大学に進学する中、自分は浪人をしていたという状況でしたが、自分と同年代の小野伸二選手が世界を相手に戦っているのを見て、自分も早く先に進まないといけないと感じました。

浪人時代は不安ばっかりで机に向かっても勉強があまり手につきませんでした。1年の浪人してもセンター試験の点数が現役の時と全然変わらなかったので国立大学は出願せず、私立大学のみ受験しました。結果、結局滑り止めの私立大学に入りました。

noteでは「サポート」の機能で記事に100円から1万円までのお金を払って記事を書いている人を応援できます!ぜひお願いします!