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転換期の記録

なぜこのタイミングで建築を志すのか。

33歳になる2022年。
9月になって資格学校の講座を申し込み、約70万の振り込みを終えた今、今の仕事を離れ、新しい自分への挑戦と新しいステージへの一歩を具体的に踏み出した実感が湧いてきて緊張感と充実感、そして程よく高揚した気持ちが入り交じり何とも言えない感覚になった。

そこでもう一度。
社会人になってから、法人営業→保険営業と違う畑を歩んできた自分がこのタイミングなぜ建築を志したのかをしっかりと言葉にしておくべきかなと思った。

理由は3つあると思っている。

理由①「過去の自分の回収」

どういうことか。
はじめて建築を志したのは今ではない。
実は中学校2年くらいのときだったような気がする。
木造の建築の造りに何となく興味があった。
その関係の本を手に取り母親、父親に見られて恥ずかしい思いをしたのを覚えている。
思えば、小学校のときにおじいちゃんと自由研究で横浜の街の形成史や建築物の歴史について調べたこともあったので、なんとなく建築やまちづくりに興味はあったのかもしれない。具体的に勉強したりすることはなかったが、なんとなく興味があり、たびたび絵を書いたり写真を見たりしていた。

そんな中、母親がガンになった。
年代的に当たり前といえば当たり前なのだが、先が長くないかもしれないことを悟ったのか将来どんなことをしたいのか進路とか夢とか聞かれることが多くなった。そんなときにふと、当時興味を持っていた建築の本を見せたとき、とてもうれしそうに父親に話しながら感心してくれたのを覚えている。
その後、母親の体をガンが蝕んでいき、ついに最期の時を迎える。
当時自分の憧れていた生活を思い描きながら海沿いに大きな庭付きの家の絵を病室で描いていた。そして息を引き取る瞬間「建築士になってみんなで集まれる家を建てる」と母親に伝えた。
言葉は発せない状態だったが口を動かし反応しているような感じだった。
あのとき母はなにを僕に言っていたのだろう。
しっかりと受け入れてくれたのだろうか。
励ましてくれたのだろうか。
何か託すようなことを言ってくれたのだろうか。
あのとき病室で流れていたゴンチチの「放課後の音楽室」や母の好きだったエンヤの曲を聞くと今でもあの病室でのことを思い出す。
それから高校へ進学し、アメフトに夢中になり中学まで頑張っていた勉強も手に付かなくなり、よりスポーツのみに傾いてしまう。
大学は建築学科のある大学+アメフトのスポーツ推薦で行ける大学へ進学はしたものの当時の自分には両立できるわけもなくほとんど建築の勉強はできずに4年が過ぎる。
その結果単位が足りず一年間留年をすることになり、西洋建築史の研究室へ。ギリシャへ1か月間1人で調査にいくなど今思うとその時の経験がとても貴重だった。
単位を取るのがやっとで建築の道へ進めることもなく卒業後はOA機器の営業の会社へそこから10年間営業一本で必死で働いてきた。
しかし、この10年目に差し掛かった今まで、母親に伝えた「建築士になる」ということがずっとシコりになっていた。
10年営業をやってきて最初のOA機器の会社。そして、保険会社に入ってからの数年は自分にも余裕はなく、ただ必死で成果を出すことで精一杯だった。それから5、6年がたち少し自分にも余裕が出てきた今になって改めてそのシコりが自分の中で大きくなってきたのだ。このままシコりを抱えたままでいいのか。そう思うようになり33歳。まだ挑戦できるのではないかと自分への根拠のない期待が湧いてきたのが今のタイミングだった。それが建築を志した1つ目の理由。

理由②「現状からの逃亡」


要するに今の環境から逃げ出したいということだ。
保険会社に転職し6年がたち、これまで自分なりに必死でやってきた。
しかし、自分のこうあるべきという感情と実際の行動がかみ合わなくなってきてしまった。
会社の中でも、コミュニケーションをとることがストレスになってきてしまいいつも自分を押し殺し、ギャップを感じながら過ごしていると当たり前だが段々と居心地が悪くなってきてしまって、愚痴が増えてくる自分に対しても苛立ちを覚えるようになる。
いまでも葛藤があるのだが、もっともっとこの仕事に本気で取り組んでいけばそういう悩みは出ないんじゃないかということ。それと、そもそも自分にはこの仕事の適正というか向いてないんじゃないかということ。もっと努力しろよというのも自分に言いたくなるのだが、もう気持ちが入らないのだ。なんでここまでつらい気持ちを持ちながらやっていかなくてはならないのか。でも必要で大切な仕事だということも分かっている。それは、今生命保険に対しての冷たい見方の存在も踏まえてでも思うことだ。しかし、このまま自分がこの仕事をして行ける自身もないし、やる資格もないと思う。もっと人に寄り添うことが出来て、覚悟の決まった人がやるべきだと。正直自分にはそこまでの気持ちはない。そういう優績者の話とかを聞くと毎回自身を無くすのだ。
あとは、この競争社会に疲れてしまっているのもある。気にしないで他人と比べず自分のやるべきことに集中をすれば良いというのも分かってはいるし、できるだけそのように努めてきた。しかし、もう環境自体がそうせざるを得なくなっている。そして足を引っ張り合い、時には馴れ合い。この業界の特徴なのかもしれない。じゃあ一匹狼としてやっていけばとも思うが、そこまでして自分は保険の仕事をしようとは思わない。
だったら自分のやりたいこと、しっくりくるものに対して人生を捧げたいと思う。
だから僕は今の現状から潔く逃げる。

理由③「建築の仕事への可能性と希望」


建築を学んでいた学生時代と随分と世間は変わっている。
大学のころは建築に関わる人はなんとなくコミュニケーションがとりづらくて、どこか人を下に見ていて、言ってることも分かりにくいし難しいことをやっているのだろうがどこか外部の人を寄せ付けない独特な空気があった。
しかし、今はテクノロジーが進化している。芸術的な要素も大きい建築の分野だが、残念ながら僕にはそのセンスがあるようには思えない。しかしテクノロジーの進化によって、建築をいう分野がとても開かれた分野に変わってきたんじゃないかと思う。以前よりも多様化していて、もっともっと外の世界とのつながりを増えてもおかしくない分野だと思うし、将来はもっと建物を建てるということがより身近で誰でもできる時代になるんじゃないかとさえ思っている。
今はまだ何となくだが、歴史的な建築物のような、一つの建造物で芸術性があり誰かも称賛されるようなものというよりも、コミュニティやムラ、集落などのまちづくりを考えることにとても可能性を見出している。まあそんなことは今の建築家の方々をとっくに考えているだろうが、、、

少子高齢化の問題には保険会社に勤めながら嫌というほど触れてきたし自分でも伝えてきた。そこにはお金の問題が前に出てきがちだが、自分にとってはヒトとヒトとの関わり合いが変化していく側面が大きいと思っている。
というかお金の問題は楽観的かもしれないが正直なんとでもなると思っている。それよりも、どんなコミュニティでどんな価値観の元で、誰と共有し、どんな生活をするかということが人生を豊かにするうえで大事なんじゃないかな。
そこに建築は必要で、人々の暮らしをつくり、守って、育てていく。
そんな場所づくりに自分は興味がある。だから、建築士、建築家になりたいのかというとけしてそういう肩書を手に入れたいというわけではなくて、あくまでそういうことをやりたいなと考えている。
そこで教養として必要になってくるものの一つが建築だったということだ。
最近は、Web3やNFT、メタバースにも興味があって触れる機会も多くなってきた。そこには、とてもレベルの高いコミュニティがあって、それぞれの価値観を育んでいる。哲学や人生観なんかも絡み合ってただの新しい技術という言葉では収まらないものになっている。それは日本の独特なものなのかもしれないが、これから広がっていく新しい技術にもすごく可能性を感じていてとても勉強にもなっている。将来的には建築やまちづくりの分野をWeb3を掛け合わせてなにかつくってみたい。

まだはっきりと何者になりたいのかということは言えないが、最近思うのは人生思ったほど長くないということだ。
老後のことなど心配する人がとても多いが、いつまでその準備をすればいいのか。それよりもいまからやりたいことやった方がいい。シンプルにそう思うだけだ。
失敗したらそのときはそのとき。ささっと方向転換して新しい道を歩めばいい。
この切り替えができるかどうかが今の時代ではとても大事だと思う。

はたから見ればかなり回り道をして建築の道にいったなと思われるかもしれないが、「人生無駄なことは何一つない」と心の底から思う。きっと落ち込んで悩んだ経験も失敗した経験も、腑に落ちないまま行動をとったことも、きっと後でその経験が活きる。


今年、最愛の妻との間に息子が誕生した。
彼がこれから大きくなっていく中で、自分の姿がどんな影響を与えるのかを考える。
やっぱり自分のやりたいことに対して素直に取り組んでいて楽しんでる姿を見せてあげたい。
いつからだって何者にでもなれる。楽しめる世界がどこかには必ずある。
そういうことを教えてあげたいし、体現していきたい。
どんな言葉を投げかけるよりも行動で。

不安は思ったより無い。
緊張感はあるがそれも心地良く感じる。
やっと自分の足で前に踏み出せる充実感を味わっている。
コツコツとやっていこう。コツコツと。

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