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『オッペンハイマー』と「歴史」の問題

さて、昨日掲載した『TENET』までのクリストファー・ノーラン論を下敷きに、今日はいよいよ『オッペンハイマー』について考えてみたい。

この映画については、下記の座談会でも取り上げたのだが、結論から述べると僕はこの映画に「世評」ほど高い評価を与えていない。

昨日、僕はこう書いた。

〈結論から述べると、僕はこの映画にそれほど肯定的ではない。それは広島、長崎の原子爆弾投下による惨状を克明に描写すべきだ……といった表面的なものではなく、ノーランが反復してきた劇映画という表現について内在的な批判(問い)が、本作においては大きく空回りしているように思えるからだ。〉

https://note.com/wakusei2nduno/n/n7818fddae94d

では、その「空回り」とは何か、というところから今日の議論は始めたい。昨日掲載したノーランに対する批評で指摘した通り、彼の映画を特徴づけるのは劇映画という制度を問う姿勢だ。その問いは、『ダンケルク』のように主に形式によって表現されることもあれば、『プレステージ』『ダークナイト』『インターステラー』のように主に物語面で表現されることもある。そして『メメント』や『インセプション』そして『TENET』のように、その両面で追求される作品も存在する。(それぞれの作品がどうアプローチしたかは、前述の批評を参照して欲しい。)

この視点から整理すると今回の『オッペンハイマー』では形式と内容(物語)の双方でその追求が行われた、と考えていいだろう。端的に言えば『オッペンハイマー』は「劇映画」という「物語」の器である制度を問い直す視線を内包する作品である、ということだと思う。その上で、僕が今回述べたいことは究極的にはひとつだ。ノーランは「歴史」というものに、もう少し謙虚であるべきではないか。それが僕の究極的な「感想」だ。

オッペンハイマーは原子爆弾を製造して「しまった」。その惨禍は、政治的には「なんとなく、リベラル」な彼の自意識とは別の次元で、大戦終結から冷戦へのパワーゲームにおける「カード」として機能し、その結果として10万人単位の市民が無差別虐殺されるという、人類史上最大の戦争「犯罪」が発生する。オッペンハイマーはその結果に戸惑うことしかできない。そして戸惑うことしかできない間に時は流れ、やがて彼は同じようにまったく予想していなかったかたちで「赤狩り」の対象となり、表舞台から追放される。

要するにここで描かれているの人間の生の不条理のようなもの、だ。あるレベルでは確実に否応なく発生してしまう出来事の連鎖は、つまり量子力学のように偶然性に支配された世界には、ただ「そうとしか生きられなかった」行為の連鎖とその結果としての「取ることのできない」責任が積み重なっていくーー。

この世界観は、身も蓋もないリアリズムに基づいている。出来事同士を結びつけて「意味」を見出し、物語を編むのは人間の後知恵で、そのように出来事の連鎖を理解することが個人の生を支え、共同体を維持する力を持つからだ。要するに、ここでノーランは劇映画という物語の器を用いて(逆手に取って)世界に、そして人生に起こり得る出来事は物語のように「意味」のあるものではないこよを描き、世界を物語から、解放しようとしている……と言うこともできなくはない。

しかしここで僕が引っかかるのは、ノーランの視点があくまで、個人がこの自己の人生にどう「意味」を見出すのか、という視点に縛られていることだ。オッペンハイマーの後半生に待ち構える皮肉な「運命」は、観客に人生の不条理を突きつける。オッペンハイマーは何かを成した。しかしその「何か」は彼の意志とは大きく隔たりのある、偶然性によって歪められたものだ。そして同じメカニズムによって、彼は表舞台から追放される。

だが、僕は思う。本当に不条理なのは個人の人生ではなく、「歴史」のほうだ。僕は子供の頃、2回ほど長崎に暮らしたことがある。小学校に通っていた頃は毎年8月9日は夏休み中の登校日で、まだたくさん存命だった市内の被爆者を学校が呼び、体育館で当時の体験を聞かされた。嫌で嫌で、仕方がなかった。そしてそのたびに、僕は自分がなぜ1945年の8月9日の午前11時2分に、あの場所にいなかったのだろう、と考えた。そして、いなくて本当に良かった、と思った。

広く知られているが、あの日長崎は晴れていた。だから爆撃された。米軍の当初の目的は小倉で、しかしその日小倉は曇り空だった。だからB29はそこから引き返して、そのとき晴れていた長崎に原爆を落とした。そして一瞬で9万人近い人が焼き殺された。歴史の「無意味」とは、このレベルのことを言うのだと僕は思う。晴れていた、ただそれだけで一瞬で9万人が死ぬ。そこには、この程度の理由しかない。そこに「意味」を見出すことなど、できない。個人が歴史に自分の業績がどう記録されるかをコントロールできない、といった自意識のレベルの問題などこの残酷な無意味さの前には、それこそ何の価値も持たないのではないか。偶然性に支配された世界の「無意味さ」とは、このレベルに現れるもので、どうにでも書き換えられる(変化し得る)個人の名誉などの話ではないのではないか。

実際に赤狩りでわれたオッペンハイマーの名誉など、少し時代が移ろい、赤狩りへの批判が全面化すればすぐに覆る程度のものだ。しかし、一瞬で9万人が焼き殺された事実は消えないし、彼らが蘇ることもない。

要するに、ノーランは自意識に関係することが世界のすべてだと、この映画では描いてしまっている。ノーランはこの映画で、つまり「劇映画」という物語の器を用いて(逆手に取って)、物語化できない人間の生を描いている。しかし人間の人生の評価など、いくらでも後世の物語の語り手たちによって書き換えられる(ノーランが今回オッペンハイマーに対してしたように)。しかし本当に取り返しのつかない偶然性に、無意味さに、残酷さに支配されているのは個人の内面に発生する「意味付け」などと、全く無関係に進行する「歴史」のほうなのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

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