パリオリンピックの開会式から「日本のダメさ」がどこにあるのかを考えた
パリオリンピックの開会式を、NHKプラスを使って出張中のホテルで観た。別の作業をしながら観たので詳細な感想は控えるしかないのだけれど、ざっと観た感じではなかなか僕は感心している。現代のフランスの、というかパリの自画像をユーモラスに、毒のある自己批評を用いて、そして歴史的な視座からしっかりと描ききっていたのではないだろうか。メッセージに賛否両論があるというが、それはあるコンセプトを高いクオリティで徹底した結果のハレーションだと考えればいいだろう。ブライトがホワイトベースのブリッジで激昂したのは、ギレンの演説が歴史に残る名演説だったからだ。
さて、その上で今日ここで論じたいのは日本人の反応の、それもあの東京五輪との比較の問題だ。いちばん呆れたのは、友人の保守系国会議員が「東京オリンピックの開会式は、このような政治的なハレーションを起こさなかっただけ、まだ立派だった」とSNS上で毒ついていたことだ。
ちょっと待ってほしい。東京オリンピックの開会式がこの種の「政治的な」物議を醸さなかったのは、そもそも国際的に「話題にならなかったから」だ。
僕らは開催国だからまだいろいろ(特にあのショボさとみっともなさを)覚えているだろうけれど、おそらく世界人口70億人中の69億人くらい(つまり日本人以外全員)は、あのオリンピックの開会式をそもそもロクに「覚えていない」と思われる。
仮に覚えていたとしても目にした数秒後に脳内の「どうでもいい」フォルダに放り込まれていた可能性が極めて高い。自分の身に置き換えて考えてほしい。君たちは回転寿司屋に行って、なんとなく頼んだけれど特にうまくもまずくもない(とりあえずリピートはしないくらいのおいしさの)名前の知らない白身魚とか、いつの間にか入れ替わっていたデザートメニューの季節のゼリーとかを、、その存在自体は覚えていたとしても、その味や匂いまでいちいち記憶しているだろうか。それくらいおそらく、いや確実に21年の東京五輪の開会式は人類全体にとって「どうでもいいこと」だったはずだ。
そして、僕がこのパリ五輪回帰式直後の騒動を眺め改めて思うのは、この国のどうしようもない、(おそらくは左右を問わない)「内向きさ」だ。
いや、これは僕自信が国内サブカルチャーの批評という、とても日本ローカルな……というか東京ローカルな業界からキャリアを始めている(多少翻訳はされているが)からこそ、気をつけていることなのだけれど、震災後というかTwitter(現X)の普及以降、この国の言論はどんどん「内向き」になっているように思う。少なくともその前までは、旧態依然としたテレビ中心の「内向きな」オールドメディアに、外向きの新しいメディア、具体的にはインターネットがあるという「構図」が成立していたと思うのだけれど、いまはそれすらない。前述の友人の国会議員は、明らかに自分の「支援者」に向けてその言葉(「日本」はそんなに悪くない」)という言葉を吐いていたと思うのだけど、このアクションがこの10年で「閉じた」この国の意識を象徴していると思う。
そして、あのTOKYO2020(開催は21年)に欠けていたのは、この「意識」だと思う。X(Twitter)の「左派」には、あのときMIKIKOの演出が実現していれば……という声が散見されるが僕はそうは思わない。もちろん、実際の開会式よりは10000倍マシだったのだと思うのだけど、
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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