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シン・村上春樹論(仮) #4 『騎士団長殺し』と父性の軟着陸

いつも月末に更新している『シン・村上春樹論』だけれど、この連休に公開しようと思っていた文章にもう少し掛かりそうなので、先にこちらを公開しておく。前3回へのリンクを置いておくので、これを機会に読んでおいて欲しい。

父性の軟着陸としての『騎士団長殺し』

『騎士団長殺し』の物語はこれまでの村上春樹の小説の主人公と同じような設定をもつ男性が、妻から離婚を告げられるところから幕を開ける。主人公は傷心を癒すために、小田原の山中にあるアトリエに移り住む。画家である主人公はそこで絵画教室の講師の職につき、静かな生活を始めるが、やがて免色という50代の男性と親しくなる。
免色はセミリタイアした資産家で、主人公の暮らすアトリエの近くにある豪邸の主だ。免色は主人公にある依頼をする。それは、主人公が小田原で始めた絵画教室の生徒であるまりえという少女と、自分を引き合わせて欲しいというものだ。免色の調査によればまりえは彼の生き別れた実の娘である可能性が高く、彼は自分が父親かもしれないことを明かさずに、何らかの手段で自然に彼女と知り合いたいと考えているのだ。まりえは自分に向けられた免色の「父」的な所有の欲望を察知して抵抗を試みるが、そのために行方不明になってしまう。
主人公はまりえを救おうと考えるが、このとき彼は「壁抜け」的な超自然的な体験を経てまりえを救出する。主人公は、移り住んだアトリエで『騎士団長殺し』と題されたある高名な画家の私的な作品に触れる。この絵には、画家が青春時代に経験した第二次世界大戦中のナチスによるアンシュルス(オーストリア併合)と、日本軍による南京虐殺の記憶が間接的に込められている。一枚の絵に込めらてた歴史の記憶に「壁抜け」的に触れた主人公は、その後に絵の中に描かれた人物の姿をした「イデア」や「メタファー」と名乗る超自然的な存在に導かれ、それらの助力を得て闇の世界に紛れ込んだまりえを救出することに成功する。
こうして主人公は(免色とは対象的に)まりえの寛容で、柔軟で、正しい父としての座を獲得する。そして主人公は自分とは異なる男性の子どもを妊娠している妻を復縁し、血のつながらない子どもの父となることを受け入れる。(そこでは、妻の妊娠日に自分が夢の中で彼女と性交し、夢精したというエピソード挿入され、超自然的な力で主人公の子どもをその妻が妊娠したことが示唆されるのだが、こうした感性についての批評は反復になるのでこれ以上言及しない。)そして物語は、やがて主人公一家が東日本大震災を経験し、物語内の時間が現代に追いつこうとするかたちで幕を閉じる。
 この小説の中では、徹底して歴史に対して正しく対峙することが、あくまで「父」になるための条件としてのみ機能している。主人公は一枚の絵を通して、そしてその絵を媒介として出現した超自然的な現象を目の当たりにすることを通して、アンシュルスの、南京事件の記憶に触れる(これは「壁抜け」の変奏だ)。そしてそのことで少女を救い、妻の妊娠する(生物学的には自分の遺伝子を引き継いでいない)子供の父親になることを引き受けることになる。歴史という共同体の記憶を引き受けることと、ステップファーザーであることを引き受けることとが、ここでは重ね合わされている。
本来の 「壁抜け」とは悪との対峙のためのものだった。しかし『騎士団長殺し』では、この構造は逆転している。ここでは主人公が(表面的には)現代的な父性を獲得して、妻を取り戻すことーー彼女が妊娠した他の男性との間の子どもを受け入れて、家族を形成することーーのために、主人公は「壁抜け」を経てアンシュルスと南京虐殺の記憶に、それも間接的に触れることを必要とされている。歴史に対峙するために「父」であることが要求されていたはずが、「父」であるために歴史への対峙が求められているのだ。

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