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シン・村上春樹論(仮) #3 オウム真理教(的なもの)とステップファミリー(への軟着陸)

※本当は「「テロで社会が変えられる」という思考を定着させないために」と題した、安倍晋三元首相暗殺事件についてのエッセイを用意していたのだけれど、なかなか書き上がらないので、前後を入れ替えて村上春樹論の連載を先に更新します。「「テロで社会が変えられる」という思考を定着させないために」は31日までに更新します。よろしくお願いします。と、いうことで、村上春樹論の3回めをよろしくお願いします。(以下は初回と2回めのリンクです)

失われた「革命」を求めて

 こうした(物語としての歴史からの)デタッチメントから(データベースとしての歴史への)コミットメントへの転回は村上春樹の問題である以上に、彼の生きた時代の問題だと言える。60年代末の学生反乱の敗北は、世界規模でユースカルチャーのモードを革命を通じて世界を変えることを断念させ、その代りに自己の内面を変革することで世界の見え方を変革することに移行させた。アメリカにおいてそれはヒッピー・ムーブメントを起点に音楽やファッションの領域からより内面的な文化へ、具体的にはエコ思想、オリエンタリズム的な禅の受容、ニューエイジ的な精神世界への接近、ドラッグ・カルチャー、そして後にこの時代を終わらせる原動力となったサイバースペースの追求などに拡大していった。これらは、資本主義に支配された現実の、もう変えることができないと断念されていた現実の外側に若者の精神を擬似的に連れ出す装置だった。そして、日本におけるそれは特にマンガやアニメなどそれまで子供向けとされていた表現の大人の受け手への拡大と、「オカルト」と呼ばれた分野の流行に特徴があった。UFO、超能力、高度な科学を持ちながらも滅んだ超古代文明、前世の存在、そして埋蔵金ーーこれらの一見、まったく無関係な妄想の類が、豊かで平和だけれども退屈な(宮台真司のいう)「終わりなき日常」の外部に擬似的に連れ出してくれる装置として、若者の支持を集めていた。このモードが解除されるのは四半世紀後の90年代後半だ。冷戦終結によるグローバルな市場の拡大と、インターネットを中心とした情報技術の進化は、再び若者たちに世界を変える可能性を信じさせはじめた。そして現在、世界は情報技術をグローバルな市場に投入することで、めまぐるしく変化「してしまう」時代に突入している。
 そして、この20世紀後半の巨大な潮流の中で生まれ、やがて破綻していったのが、村上春樹が長くその仮想敵として、現代における悪の象徴として位置づけていたオウム真理教だった。

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