見出し画像

『王様戦隊キングーオージャー』と「切断」の問題

 先日、石岡良治さん、切通理作さん、國分功一郎さんと4人で先週完結した『王様戦隊キングオージャー』についての座談会を行った。

 詳しくは動画のほうを観てもらいたいのだけれど、今日はこの座談会を通して改めて考えたことを書いてみようと思う。結論から述べれば、この『王様戦隊キングオージャー』は前作『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』に続いて、いや、ある側面ではそれ以上に画期的な作品だったのではないかと僕は考えている。その画期性のために反発も大きかった作品だと思うが、この成果をどう発展させるかは東映特撮の、いや国内の映像文化の未来を大きく左右するだろう。

 僕は番組でこの「戦隊」の位置づけを整理するためにまず、「スラップスティックから大河ドラマへ」という構図を提示した。1年前に僕は前作『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』について「特撮ヒーロー番組であることを「利用した」スラップスティックを達成した」と評した。この流れで言うとこの『キングオージャー』は「特撮ヒーロー番組であることを「利用した」大河ドラマを達成した」と言えるのだと思う。
 
 かいつまんで述べればファンタジー的な設定だからこそ可能な物語展開と、実写のテレビドラマだからこそ可能な生身の役者を用いた人物描写を両立させるために、「スーパー戦隊」という番組枠とその形式がとても有効に活用されていた、ということだ。

 広く知られているようにこの『キングオージャー』では「見た目」のレベル、より具体的には撮影方法のレベルで従来の東映特撮とは一線を画した方法が取られていた。グリーンバックを背景に撮影し、その後にCGを合成するという従来の方法に加えて、『キングオージャー』では巨大なLEDパネル(LEDウォール)を背景として用いる撮影技術が取られたという。
 そして僕がこの話を聞いたときに、最初に思い出したのはあの押井守の「すべての映画はアニメになる」という言葉だった。

 これは押井守が『アヴァロン』(2001年公開)の前後に述べていた言葉だ。要するにコンピューターの発展が映像制作の手法を根底から変えてしまう結果として、「すべての映画はアニメになる」のだ。どういうことかというとコンピューター上では手書きの絵だろうが、CGだろうが、実写を取り込んだ映像だろうが、それらはすべて視覚「情報」として等価で、いかようにも編集(合成)できる。
 押井守はアニメの(実写に比べて)コントローラブルな性質に注目してきた演出家だ。アニメーションには「偶然入り込んでしまったもの」が存在できない。演出家やアニメーターの「意図」がなければ、そこには草一本、瓶ひとつ存在できないし、それが人間(キャラクター)であればなおのことだ。そしてコンピューターの導入は、すべての劇映画を「アニメ的」にコントロール可能にしてしまう。その結果としてどのような劇映画が生まれるのか……を、僕も観客として、批評家として注意深く見守ってきた。そしてこの『キングオージャー』は「すべての映画がアニメになる」時代に生まれた、一つの回答(あたらしいモデル)なのだと思った。

 要するに『キングオージャー』という劇映画(テレビドラマ)のリアリティは、この撮影手法(による背景)の導入と、それに見合った物語と芝居によってはじめて成立している。この明らかに2.5次元舞台の影響下にある芝居(実写のそれにしてはアニメっぽく、舞台のそれにしては実写劇映画っぽい独特の芝居と演出)が、この撮影手法(背景)にこそマッチした(成熟していった)ものなのは間違いない。そしてこの少年漫画的なドラマツルギーを「たしかにそこにその人が生きている」と感じさせる息遣いで見せる物語展開もまた、この奇妙なリアリティを持つ世界(に合った芝居)だったからこそ成立したものだと思う。
 つまりこの作品は「特撮」というか、「スーパー戦隊」というフォーマットやその制約(実写でファンタジーをやり、1年間の長尺で展開する。主役たちは演技未経験者中心になりがち)を、新技術を前提にどう活かす(逆手に取る)かを考え直し、大きな成果を上げたものだと評価できるのだ。

 そしてその上で、僕が評価したいのはこの作品は結果的にかもしれないが時代への応答としての側面を備えている点だ。要するに、この作品は(戦闘力的にも、権力的にも)巨大な力を手にした「王たち」がそれぞれのやり方で、それをエレガントに扱う姿を描いていたことは間違いないだろう。これは、2010年代を席巻した『アベンジャーズ』などのMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)と比較すると分かりやすい。

ここから先は

1,260字
僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。