「なぜ人間は〈働く〉ことでカネも承認も社会的な役割も得ようとしてしまうのか」という問題を考える
昨日は PLANETSCLUB に阿部真大さんをお招きして、現代における「労働」の問題について講義してもらった。阿部さんは2006年に『搾取される若者たち』でバイク便ライダーの労働実態の調査を背景に「自己実現系ワーカホリック」という問題提起をした。これは今で言う「やりがい搾取」という言葉の原型になったもので、阿部さんこそが最初にこの問題を指摘した人物だと言えると思う。
その阿部さんの近年の研究を一般向けにまとめたものが、昨年出版された『会社のなかの「仕事」 社会のなかの「仕事」』で、昨晩の講義は同書の内容をもとにしたものだ。
書名にある「会社なかの仕事」とは要するに職場という共同体内の承認のことで、「社会の中の仕事」とはその仕事の果たすべき社会での「役割」のことだ。
前者は「社長の右腕として活躍」とか、「お客様の笑顔を得る仕事による充実感」といったもので、共同体への忠誠心が個人としての思考を麻痺させたり、「やりがい搾取」に利用されたりする。対して後者は「この地域の医療を支える」とか、「伝統的な栽培法を守る」といった社会的な価値のことだ。
そして阿部さんは現代的なマネジメントが前者に注目し、人間を「やりがい」で満たし「搾取」する手法が定着していることを問題視し人間にとっての後者の比重が増すことで、前者を相対化することが必要だと説いている。
非常に説得力のある議論だが、ここからが難しい。そしてこれが昨晩阿部さんを僕がお呼びした理由でもあるのだが、まさにこの「社会の中の仕事」に意義が見いだせないからこそ、「会社の中の仕事」に依存する人々が増加したと僕は考えるからだ。
90年代にも「これからは職業人としての「プロ意識」をアイデンティティの基盤にするべきだ」という議論があったと思うのだけれど、実際にはその時点で産業構造的に「その人でなくてはいけない」仕事などほとんどなかったはずだ。Dr.コトーがいなければ、あの離島の医療は崩壊したかもしれないが、本土の工場で働く労働者Aがベルトコンベアの一部となって携わる労働に「社会的役割」を(どれだけあったとしても)「感じる」のは難しい。
そこで阿部さんは仕事の「社会的な役割」の明確化が重要だと述べる。僕も全くそう思う。たとえば飛行機のCAの業務は「保安」で、「接客」ではない。こうした意識の徹底がカスタマーの肥大した要求を抑止し、労働者を守る。そのために会社を超えた労働「組合」の再編(それはおそらく、既存の政党政治のしばらみから一度離れたものになるだろう)が必要だという処方箋も強く支持する。
しかしその一方で、産業構造的に「仕事」に「役割」を果たすことによる自己信頼を得られる人間はごくわずかであるという現実は覆らない。これは、仕事に「承認」を求めてしまう人々が後を絶たないことを意味しているようにも思うのだ。
では、どうするのか。
たとえば仕事に内面的な充実を求めなければいいーーと考えることもできるだろう。社会に求められている「役割」を果たせる仕事はほんの一握りで、ほとんどの労働者は「承認」を求めがちな環境にある。そして職場からの承認を求めない/得られない人々の欲望は、既に「政治」というはけ口を見つけている。これ自体は、喜ばしいことだと考えることはできるだろう。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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