見出し画像

『窓ぎわのトットちゃん』と「弱さ」 の問題

先日、公開されたばかりの『窓ぎわのトットちゃん』を観てきた。興行的には苦戦が報じられているが、これは有名原作のネームバリューに甘えない野心的な作品だったように思う。

その最大のポイントは、端的に述べれば主人公のトットちゃんの、つまり子供の視点から観た世界を複数の、異なる論理で記述されたまったく異なる「絵」を組み合わせることで表現したところにある。僕たち大人は理性を駆使して、世界を一枚の平面に描かれた地図のように把握してしまうが、子供の場合はこうした整理と統合がなされないまま、ばらばらの不安定な状態のまま世界を受け止めることになる。

アニメーションという表現はこの「統合されなさ」を、複数の、異なる手法で描かれた「絵」を同居させることで描くことが可能になる。本作は、ここに注目している。トットちゃん物語の場合は、特に忍び寄る「戦争」の影が、彼女の想像力を超えた得体の知れない物として表れることになる。既に多くの観客が指摘しているが、なかでも後半に描かれる級友の告別式のあとにトットちゃんが街を走るシーンはおそらく、この後も参照されていくことになるだろう。

さて、その上で今日はこの映画を素材に少し別のことを考えてみたい……と書きつつ、実は最後に映画そのものの評価に帰結するのだけれど、僕はこの映画は優れた演出と作画に比して、やや脚本が弱いように思っているのだ。ただ誤解しないでほしいのだけど、これは本当に他の要素が優れているからこそ、特筆するほど優れているとは言えない要素のことが目立ってしまう……くらいのことだ。

だからこの週末に予定のない人は、とりあえずこの映画を見に行けば良いと僕は思う。その上で、でも大事なことだと思うので論じていくのだけれど、この映画は原作小説の豊富な、バラエティに富むエピソードの中でも主人公と小児麻痺の友達(泰明ちゃん)との関係を軸に再構成されている。しかし、僕は泰明ちゃんとの関係を中心に構成「しなかった」バージョンのもの「も」観たかったように思うのだ。以下、その理由を書いていこうと思う。

僕は実はこの原作小説が好きで、以前にエッセイでこの作品を今読み返すことの意味について書いたこともある。

黒柳による原作小説は尋常小学校から拒絶された少女(トットちゃん)が、大正自由教育の理想を引き継ぐトモエ学園に居場所を見出していく、という物語だ。それも大人のメタレベルからの解説的な視点は抑制され、トットちゃんの等身大の体験として、その自由な学びの場所の魅力が浮かび上がってくる。つまり、この小説の中核にあるのは、校長先生(小林宗作)が作り上げたトモエ学園というユートピアの魅力だ。だからこそそのユートピアが戦争という、身も蓋もない暴力で破壊されてしまう結末に、そして小林が空襲に遭い、燃え上がる校舎を眺めながら再起を誓うラストシーンに読者は圧倒されるのだ。

そして、僕はこの「トモエ学園」の精神を踏襲するのなら、「泰明ちゃん」を軸にした脚本とは別のアプローチもあり得たのではないかと思うのだ。

小学生のトットちゃんには、報道や後の世の教科書が伝えるようにメタレベルから「情勢」の悪化を「知る」ことができない。ただ、漠然と身の回りの世界の変化を肌で感じることしかできない。繰り返すがこの映画の白眉はこうした幼い主人公の感受性を表現したユニークなアプローチ(非自然主義的リアリズムで描かれる)にあり、これが効果的なのは尺の大半を占める日常の家庭や学園での自然主義的なリアリズムによる表現が丁寧に積み重ねられているからに他ならない。

この演出を理解するために手がかりになるのは、近いモチーフを扱ったも片渕須直監督の『この世界の片隅に』との比較だろう。

ここから先は

1,777字
僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。