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新海誠が「世界を美しく描く」のは、劇映画(の類)による「風景への介入」という回路がもはや機能しないからではないかという仮説(を押井守の『機動警察パトレイバー2 the Movie』の「風景」から考えた話)

突然だけれど、僕は今日45歳になった。誕生日と言っても明日から出張なのと、落としそうな原稿を抱えていて、いつも通り過ごしているというか、いつも以上にバタバタしている……。

ちなみに明日の出張の行き先は金沢で、21世紀美術館で行われる『機動警察パトレイバー2』上映会のトークゲストに出る。(たぶん当日券もあるはず。)

この映画は僕の人生を変えたと言ってもいいくらい大好きな映画で、5年前の2028年にはPLANETS vol.10の「戦争」特集で押井守監督にインタビューをしている(当時既にもう25年前の作品だったのに……)。

それくらい好きな作品なので45歳の初仕事が、この映画について改めて語る仕事になるのは本当に感慨深い。この映画が公開された1993年、中学3年生だった僕は自分が30年後の誕生日をこう過ごしていると伝えたらどんな顔をするだろうと思う。

ちなみにこのトークイベントは谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館で開催されている企画展「アニメ背景美術に描かれた都市」のクロージングイベントでもある。これは80年代からゼロ年代にかけての劇場大作アニメーションの背景美術に焦点を当てた展覧会で、これらの作品が都市空間をどのように描き、そしてアニメーションを表現してきたかを問う展示になっている。決して大きな会場ではないが、厳選された資料、スタッフのインタビューなどからアニメーションの表現、とくにその世界観を演出する上で架空の都市空間が担わされてきた役割を浮き彫りにする素晴らしい展示だ。もし、このトークショーに来てくれる人がいたら【絶対に】こちらの展示を見て欲しい。

さてその上で今日書きたいのは、明日に僕が話す予定のことの「半分」だ。それは、戦後の「風景」とサブカルチャーの想像力についての問題提起だ。

結論から述べれば、いまの日本のアニメーションは破壊すべき「風景」を失ってしまっている。その結果として世界観ではなくキャラクター、風景でなく身体でしか語れなくなっている。しかしそのことで、失ったものは極めて大きく、たとえば新海誠の『すずめの戸締まり』の空疎さ(を選ぶことで支持されること)の原因もここにあるのではないか、ということだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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