見出し画像

音喜多駿と久しぶりに議論して、「なぜこの国は万博をやめられないのか」について考えた

今日はなぜこの国は「大阪万博」を止められないのか、東京オリンピックを止められなかったのか、そして80年前の日米開戦を止められなかったのか……ということについて書いてみたいと思う。結論から述べてしまうと、この国はもっといい意味で「ばらばら」になる必要があるというのが僕の考えだ。そしてそのために何が必要か、ということまでかんたんに仮説のようなものを書いてみたいと思っている。

僕と音喜多駿の関係

急にこのようなことを考えたきっかけは、音喜多駿さんと久しぶりに対談してきたことだ。
僕はこの秋から、You Tubeのチャンネルで対談動画のシリーズを立ち上げることにして、初回は、最近きちんと話していないな、と思って音喜多さんと議論してきた。

https://youtu.be/AgquEscKtB0?si=fc-hn9W2wBA44BVY

僕は彼が日本維新の会に合流するのを止めようとして(そして失敗して)から、政治的にはかなり距離が生まれてしまったのだけど、だからこそ議論する価値があると思っている。

しかし残念ながらそうは考えない人がいて、音喜多と対談したというだけでTwitter(X)で罵倒されたりもしたのだけれど、ここでの問題はそういった「SNSのもたらす社会の分断」とか、「〈敵〉を殴る快楽の中毒で考える力を失った愚民」とか、そういったことではなく、むしろ彼との議論の「中身」のほうだ。

政治家はポジショントークを(当然)するけれど……

動画を観てもらえると分かると思うのだけれど、僕と音喜多さんはここで大阪万博の是非について議論を交わしている。当然、僕は万博の開催に反対で音喜多さんは賛成だ。単純に考えて「日本維新の会」に入党する前の音喜多さんなら、こういった都市開発と国威発揚のセット販売のような前世紀的なモデルは一刀両断していたはずだし、数多の「箱物行政」を批判してきたようにこの万博にもかなりシビアな目を向けていたはずだ。

だから僕は、やっぱり政党所属の議員はその立場から発言するしかないのだな……と思ってしまったわけなのだけど、それ以上に気になるのは彼が「今更止められない」という前提で話していたように思えることだ。そして喋っているあいだに僕も、心のどこかで「これはもう止められないから少しでもマシな軟着陸を……」とか考え始めてしまったことなのだ。そして僕は思う。この「空気に流されそうになる」心理こそが「罠」なのだ。

ここから先は

1,408字

¥ 300

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。