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「自分の考え」を直接的に書いてばかりいると、想像力が枯渇するのではという話

バタバタと忙しく、このnoteではあまり触れてこなかったけれど、僕は半月ほど前にはじめての小説本を出版した。『チーム・オルタナティブの冒険』というタイトルで、ジャンルは強いて言うならジュブナイルになると思う。本の帯にあるように、地方として起きたある事件をめぐる高校生たちの物語だ。

読んでくれた人の感想は今のところすごくよく、たぶん僕の批評本を読んだことのない読者でもまったく問題なく読めて、そして「普通に面白くて」ビックリするはずだ(実際、そういう感想が多くてしてやったりと思っている)。僕は小説を書く人としては「新人」なので、読んだ人からの「感想」が溜まって「見つかる」しかないところがある。なので、読んだ人はぜひ感想をどこかに書いたりして欲しい。

さて、今日はこの「小説」といういままで僕が書いたことのなかったタイプの文章を書いた経験から「物書き」としての僕が考えたことについて書きたいと思う。

結論から言うと、小説を書くという経験はとても楽しく、そして難しい仕事だった。そして一冊小説を書き終えた今、僕は人間は実のところ「自分の考え」だけを言葉にしていると、考える力がどんどん落ちていってしまうのだと痛感しているのだ。

これは、どういうことか。

小説を書くというのは(もちろん、そうではない小説の伝統があることは理解しているので、正確にはある形式の小説を書くというのは)自分の考えたことを直接的に書くのではない、というところにその面白さがある。

たとえば、僕が今回書いた小説は高校二年生の少年が主人公で、物語は彼の一人称で語られる。この設定にしたのは長編の小説を初めて書くときに、あまり自分自身から離れた語り手だと書きづらくなるのではと考えたからだ。

一応、ネタバレを排除して書くと僕はこの小説を終盤の展開から逆算して書いてる。要するに一番書きたかったのは終盤に展開するような物語で、そうなると実は必ずしも高校二年生の少年が主人公(語り手)である必要はない。

しかし小説を書き慣れていない自分がしっかりとリアリティを構築するためには、過去の自分を振り返って、あの頃はこうしたことを感じていたな……と思い出せばある程度書けてしまうような語り手の設定が必要だったのだ。

その結果として、物語は地方都市に暮らす世を拗ねた、まるで過去の自分のような陰キャの少年の一人称で語られることになった、というわけだ。

それでも(ここまで、意図的に寄せたのに)僕とその小説の語り手の少年の間には距離が生まれてしまう。僕と彼は家庭環境も違うし、周囲の人間関係も違うし、生きてきた時代も違う、いや、なによりそもそも「別の人間」だ。だから、最後の最後で考え方、感じ方が僕自身とは異なってしまう部分がでてきてしまう。

当たり前のことだけれど、ここが一番難しかった。特に僕はこうして日常的に(この文章のように)自分が考えていることを直接的に言葉にして、読者に伝える仕事をしているので、逆に「この人物だったらこう考えるだろう」と、思考を迂回しながら書くのが難しく、そして新鮮だったのだ。

そしてここからが本題なのだけれど、こうして「自分ではない」誰かの考えをシミュレーションして、そしてその人物になりきって、実感を込めて書くということはとてもいい思考のトレーニングになったと思う。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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