ロボットアニメはなぜティーンズの「性と死」を描けるのか|石岡良治(後編)
ロボットアニメはなぜティーンズの「性と死」を描けるのか|石岡良治(後編)
「宇宙世紀ガンダム」を支え続けるガンプラ市場
現時点(2019年執筆時点)における『ガンダム』テレビシリーズ最新作『鉄血のオルフェンズ』の反響について、ひとつ興味深いことがあります。視聴率やソフト売上という点では必ずしもブランド力に見合っていないとする見解もあるのですが、主役機「ガンダム・バルバトス」をはじめとして、ガンプラの売上という点ではそれなりに好調だったという事実です。
そもそも1980年代のロボットアニメブームはほぼ『ガンダム』の存在や、再放送中に爆発的に売れた「ガンプラブーム」の余波という側面があるのですが、プラモデルというホビーの世界が、アニメから半分自律した世界を形成していたことが、興味深い展開を生みました。
「リアルロボットアニメ」の典型として挙げた『太陽の牙ダグラム』は、もっぱらプラモデルの売上の力によって放送延長となり、75話という長期アニメとなりました。現在では後続の『装甲騎兵ボトムズ』のほうがアニメ作品としての存在感は大きいのですが、1980年代のガンプラブームの直撃世代である私の印象としては、『ダグラム』のプラモデルは、デザイナー大河原邦男の無骨なデザインがいい感じに出ていて、ガンダムをよりリアル寄りにしたメカが魅力的でした。
当のガンプラにかんしても、とりわけ小学生にとって魅力的だったのは、手頃な値段で買えた最小スケールの「1/144」では、マイナーなメカも含めた「コンプリートの楽しみ」が味わえたことです。1980年代前半が社会現象としてのガンプラブームの最盛期なのですが、ガンプラバトルを題材にしたマンガ『プラモ狂四郎』などの存在によって、掲載誌の「コミックボンボン」(講談社)が、『ドラえもん』などが連載されていた「コロコロコミック」(小学館)の部数に肉薄する勢いを持つほどでした。「コミックボンボン」は現在では廃刊となってしまいましたが、『SDガンダム』が展開されていた1980年代末から1990年代初頭には、一時「コロコロコミック」と売上が逆転していたぐらい、ガンダムのホビーとしての力が大きかったことがうかがえます。
ガンプラブームで興味深いエピソードとしては、アニメに登場したモビルスーツが発売され尽くされた後、「ザク」などの派生機を「モビルスーツバリエーション(MSV)」として独自展開していたことが挙げられます。そこでは「ザク」と「グフ」の中間形態や、最後のMS「ジオング」への発展系の「サイコザク」など、モデラーやデザイナーがアニメの設定から膨らませていった様々なモビルスーツが多数発売され、現在に至る「宇宙世紀もの」の派生アニメに出てくるカスタム機の原点となりました。今の私は宇宙世紀派生もの作品の多くはアニメとしては「蛇足」になりがちという印象を持っていますが、これらの作品についてはむしろ「プラモデルをつくる側」から眺めることで、その魅力がわかるのかもしれません。その嚆矢となったのは、カトキハジメがデザインした「Sガンダム」によって知られ、模型誌「モデルグラフィックス」(大日本絵画)で連載されていた『ガンダム・センチネル』(1987~1990)でしょう。
カトキハジメ以後、明らかにプラモデル展開の重点が「ザク」などのジオンMSからガンダム派生機に移動した感があるのですが、それは『センチネル』から『機動戦士ガンダム0083 STARDUSTMEMORY』(1991~1992)、『機動戦士ガンダムUユニコーンC』(2010~2014)に至る作品人気を支えているのが、決してシナリオではなく、根強いガンプラマニアであることを示しています。たとえばしばしば話題になった『ガンダムUC』のテーマ曲「UNICORN」の独特の高揚感は、カトキハジメデザインの主役機「ガンダムユニコーン」の可動ギミックが開示される映像と切り離せないのではないでしょうか。
模型・ゲームの要素を持ち込んで生まれたプレイアビリティ
1980年代前半のガンプラブームを支えていたのは、駄菓子屋などにもプラモデルが入荷したことに加えて、もともとはスケールモデルを主に扱っていた模型屋の存在がありました。しかし、1980年代後半になると、ボリュームゾーンである団塊ジュニア世代の多くがファミコンブームのほうに移っていき、模型屋がゲーム屋に変わることもしばしばありました。この頃大幅に増えた街のゲームショップも、現在では大半が閉店しており、ホビーの移り変わりを物語りますが、だいたい1984~1985年頃には、最初のガンプラブームは一段落した感があります。
一般的にこの時期にロボットアニメの人気が下がった理由として、まさに「プラモからゲームへ」と、男児向けホビーの主軸が移ったからだという分析がしばしばなされているように思います。事実、1983年に登場したファミコン最大のヒット作である『スーパーマリオブラザーズ』の発売年(1985)が、アニメ『機動戦士Zゼータガンダム』放映年と同じであることは象徴的でしょう。
しかし、私を含めてファミコン以前のアーケードゲームを遊んでいた人にとってはある程度自明だった、ファミコンにおけるスペックの限界という問題がありました。ファミコンはコストパフォーマンスに優れ、アクションゲーム向きのアーキテクチャ、今でもチップチューンが制作される魅力的な音源構成などで知られていますが、アーケードゲームの移植作ですぐに明らかになったように、処理能力が必ずしも高くはなく、ロボットゲームを展開するにはスペックが十分ではありませんでした。 むしろ1980年代から1990年代に至るゲーム産業では、アーケードこそが処理能力が高いアクションゲームが発表される場と認識されていました。たとえば当時の人気ジャンルだったシューティングゲームの『グラディウス』(1985)、『R-TYPE』(1987)などは、明らかにメカ要素が魅力のひとつで、ロボットアニメに惹かれた人たちの共通文化とも言える、『スター・ウォーズ』以来のSF需要を満たしていたわけです。アニメだけを追っていると、ゲームがアニメの「客を奪った」という見立てにどうしてもなりがちなのですが、実際にはゲームの制作者にはロボットアニメ好きが多く、乏しい表現力の中でなんとかロボット要素を取り入れようとしていたことは明らかです。たとえば1985年にセガが「体感ゲーム」として発売した、ムービングコクピットを取り入れた『スペースハリアー』では、そのものズバリ「モビルスーツドム」が登場していました。現在では版権の関係から、ロボットの「バレル」と呼ぶようになっていますが、造形は明らかに『ガンダム』のドムに『ボトムズ』特有の三連カメラを付けた姿になっています。
またカプコンの『サイドアーム』(1986)は、明らかに『グラディウス』を強く意識したグラフィック表現を用いたロボットシューティングゲームです。
アクションゲームを得意としていなかった当時のPCゲームの世界でも、PC-8801SR 用ソフト『テグザー』(1985)は主人公機に変形要素が入っていて、明らかに『マクロス』の影響が感じられます。『テグザー』はファミコンにも移植されましたが、『グラディウス』のファミコン移植版などと同様、レーザーの表現が不十分でした。ただ、PCゲームもファミコンよりましとはいえ、ロボットを自在に動かすという点ではまだまだ不自由な状況だったと言えるでしょう。そんななかで興味深い事例が、1986年にスクウェア(当時)が、日本サンライズ(当時)の協賛を得てやはりPC-8801SR 用として発売した『クルーズチェイサー ブラスティ』です。後にファミコンで『ファイナルファンタジー』シリーズを立ち上げた坂口博信がスタッフとして関わっており、この当時から一貫した「ゲームムービー」への志向性がうかがえる点でも興味深いタイトルです。このゲームはロボットを自分で自在に操るのではなく、実質的にはRPG要素が色濃いターン制バトルを採用していました。今の感覚からすると未熟なゲーム性にもみえますが、端的に言うと、日本のゲーム業界の人たちには「ガンダムやマクロスのようなロボットを、できれば自由自在に動かしたい」という強烈な欲望がもともとあって、その一部をなんとかゲームで実現しようとしていたわけです。
『ブラスティ』にサンライズが関わっていた事実は重要です。なぜなら少し前までサンライズは、アニメの企画に可能な限りロボットを絡めようとする一貫した意志をみせていたスタジオだったからです。たとえば『疾風!アイアンリーガー』(1993~1994)は野球を題材にしたロボットアニメで、一定の人気を得た作品ですが、「なぜロボットなのか」という部分を掘り下げていくと、サンライズのコーポレートアイデンティティに行き着くように思われます。
そして一部では黒歴史扱いされている怪作『アイドルマスター XゼノグラシアENOGLOSSIA』(2007)は、ロボットとヒロインの恋愛要素など今見直すと別の意味で興味深いアニメですが、『アイマス』ファンの大半のニーズからはまったくズレたものになっていました。監督が長井龍雪であることも興味深く、『オルフェンズ』はロボットアニメへの取り組みという点では『ゼノグラシア』のリベンジという見方もできるほどです。また、サンライズもここからいろいろ学んだこともあってか、ロボット要素が一切ないアイドルアニメ『ラブライブ!』は、ロボットアニメよりも大きな収益を上げる結果となり、2010年代サンライズの代表作となったわけです。こうした流れはまさに、ロボットアニメの存在感が、現在に近付くほど減っていく事実を如実に物語っています。
さて、ゲームとロボットの関わりについてですが、その後、1990年代後半に入ると、コンシューマーゲーム機もプレイステーションとセガサターンの世代に入り、表現力の向上でロボットゲームが十分出せる状況が生まれました。プレイステーションの『アーマード・コア』シリーズ(1997~)はその象徴でしょう。他方のセガサターンではガンダム関連の名作がいくつか出ており、『機動戦士ガンダム外伝 THE BLUE DESTINY』3部作(1996~1997)や『機動戦士ガンダム ギレンの野望』(1998)が有名です。もう一つ重要なタイトルとして、セガのアーケードゲーム『電脳戦機バーチャロン』(1995)は翌年セガサターンに移植されましたが、専用スティックを買う人もしばしば見られ、ロボットとゲームの結びつきが密になったことがうかがえます。アニメと比較的関係のないロボットシリーズのプラモデルとして、永野護の『ファイブスター物語』(1986~)に加えて、カトキハジメデザインの『バーチャロン』シリーズが挙げられるのは重要でしょう。
『スパロボ』についても、シリーズ中人気と評価のバランスが良い『スーパーロボット大戦α』が2000年に初代プレイステーションで出ている点が注目されます。ようやくこの世代のゲームマシンに至ることで、アニメーションムービーや「歌」などをゲームに融合することができたわけです。
なおロボットアニメにおけるゲームの影響という点では、1994年のアニメ『機動武闘伝Gガンダム』の「ガンダムファイト」が、明らかに格闘ゲーム『ストリートファイターⅡ』(1991)の比喩を取り入れることで、当時行き詰まりを見せていた「宇宙世紀」以外のガンダムコンテンツの可能性を切り開いたことが挙げられます。このように、ロボットアニメはプラモデルとの関連だけでなく、ゲーム史とも並走してきました。
2001年に第1作がアーケードゲームとして出て、プレイステーション2移植で人気を得た『ガンダムvs.』シリーズ(念のため触れておくと、私はアーケード版にほぼ忠実なドリームキャスト版でまず遊んでいました)は、1990年代の格闘ゲームブームを起こしたカプコンが開発したことにより、それまでのガンダムゲームに対する「版権ゲーム」ゆえの偏見を覆し、また格ゲーブームが一段落したあとのアーケードゲームシーンを支えたタイトルだったことも指摘されるべきでしょう。ゲーマーの中には、アニメの『ガンダム』を知ることなく『vs.』シリーズから入った人も多く、ロボットというガジェットの独自の魅力がここに現れています。
ここまではもっぱらプラモデルやゲームに注目することで、ロボットアニメがなぜ魅力的であったのかについて考えてみました。まとめるなら、アニメという映像メディアの中に、模型やゲームという異なる「ホビー」の要素を持ち込むことで、アニメ映像から切り離された形での「プレイアビリティ」が確保されたということです。
ガンプラが喚起する「体系性」と『∀ガンダム』の達成
前々節では、ガンプラの1/144スケールについて、手頃な大きさゆえにたいていのメカが模型化されていたことで、ある種の「コンプリート欲」を喚起するものとなっていた話に触れました。ガンプラのそうした側面をよく示すキットが、通称「武器セット」と呼ばれたモデルです。ガンプラ熱が最高潮のときには、ガンダムやザク・グフなどの人気モデルが手に入らず、この武器セットだけ先に買う人もいたほどで、私もその一人でした。
ファッション好きにみられる購買活動として、仮に靴が気に入った場合、「靴合わせ」で服装一式を新調するなど、付属物とされやすいアクセサリーの側が「本体」を規定するケースはまま見られます。
ガンプラにおける「武器セット」も、まさにそうした役割を演じていたわけですね。『オルフェンズ』でもこの「武器セット」の伝統は健在で、武器ユニットだけの「オプションセット」が複数発売されています。
現在ではさすがに「本体よりも先に武器を買う」ような購買活動は稀だと思いますが、ここには「コレクション」を駆動する重要な要素があると思います。マイナーなオプション武器が揃うことから生まれる「体系性」への欲望こそが、ガンプラがひとつのワールドを形成した重要な理由のように考えられるからです。ちょうどレゴブロックが「なんでも作れるのではないか」と思わせるように、ガンプラには「今ここ」にある模型だけでは完結せず「その次」へと駆り立てる要素に満ちています。単体で興味を惹くロボやメカは他の作品でも生み出されていますが、メカ群のトータルな集合体そのものの魅力を、ガンダム以外のロボットアニメが作り出すことはできなかったように思います。
現在このような「コンプリート」への欲望を担っているのは、トレーディングカードであったり、収集系のRPGであったりするわけで、ロボットがそうした役割を演じるために越えなければならないハードルはかなり高いと言わざるを得ません。ガンダムにおいてなぜ執拗に「宇宙世紀もの」が制作されるのか、また『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』(2015~2018)の「ブグ」のような、人によっては蛇足と感じられるモビルスーツがなぜ増殖していくのか、というその増殖原理は、体系性への欲望にあるんですね。個別のエピソードが少しぐらい崩れようとも、モビルスーツの体系のほうに魅力を感じる人がいるのです(たとえば個人的に『ガンダムUC』のネオ・ジオングはあまり好きではないのですが、あの造形も『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』〈1988〉における「アルパ・アジール」の系統を意識しており、「体系を埋める」造形ではあるわけです)。
ガンダムのモビルスーツが、プラモを介して体系性を喚起させるものであることについては、『∀ターンエーガンダム』(1999~2000)のコンセプトが批評性を備えた画期的なものとなっているので少し触れてみたいと思います。『∀ガンダム』は、今では日常語となった感のある単語「黒歴史」を生み出したことで知られています。「黒歴史」は有史以来の戦争の歴史として位置付けられており、そこに代々の『ガンダム』シリーズが並列的に含まれるわけですが、作品世界ではその歴史は「忘却されている」という設定です。しかし他方で、数々の過去のモビルスーツが遺跡として埋まっていて、それを発掘して使っているという秀逸な設定があります。とりわけ、ガンダムを知っている者からはどうみても「ザク」にしか見えないモビルスーツを掘り出した地球人が、勝手に「ボルジャーノン」と名付けるところが批評的に興味深いと言えるでしょう。言葉の記憶が失われてしまっても、モビルスーツというガジェットさえ健在であれば、そこに勝手な命名を施して好き勝手に使うことができるという、「記憶を掘り返すこと」の魅力を示しているように思うからです。他方、月に住むムーンレィスは「正しい記録」を保持しているので「ザク」と呼んでおり、同じモビルスーツを前にした言葉の齟齬が、文化摩擦としてうまく描かれているわけです。
要するに、『∀ガンダム』が「遺跡からモビルスーツを掘り出しどうにか動かす」という形で描いていたのは、宇宙世紀に限らず「すべての(∀という文字は論理学における全称記号すなわち「すべての」に対応しています)ガンダム」が、体系性もなくバラバラに存在しているかに見える状況に、「全歴史」という形での体系を再び与えたことのように思います。『∀ガンダム』の放映時期は、ちょうど現実のガンプラにおいても、先行していた1/100スケールのMG(マスターグレード)シリーズに加え、1999年に1/144スケールのHGUC(ハイグレード・ユニバーサルセンチュリー)シリーズが生まれることで、過去のガンプラの更新が進められていった時期にあたります。20世紀から今世紀に至る世紀転換期に、ガンダムおよびガンプラの双方において、過去をまとめて捉え直す機運が熟し、一定の成果をみたこと―これが、現在に至るガンダムシリーズの存在感の基礎となっているのではないでしょうか。
ただし、その反面、ガンプラのみが圧倒的洗練をみせることで、他のロボットアニメの模型がガンダムシリーズと同様のクオリティや存在感を得ることが事実上不可能になるという副産物をもたらしてしまったことは否めません。したがって、『ガンダム』や『マクロス』といったブランドを形成しているタイトル「以外」の今世紀のロボットアニメは、こうした困難を前提に展開されているわけです。
ロボットアニメはなぜティーンズの「性と死」を描けるのか
ロボットアニメにおける今世紀最初のヒット作品が、『機動戦士ガンダムSEED』(2002~2003)および続編の『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』(2004~2005)であることはよく知られています。今ではファン世代が年齢を重ねたこともあり古典化していますが、それ以前の『ガンダム』のイメージを抱く人々に大きな抵抗を引き起こしたことも有名です。私はこの種の「新奇性」には基本的についていくタイプなので楽しく観ていましたが、まさにガンプラブームにあたる団塊ジュニア世代には、今なお嫌う人が少なくないのも事実です。
以下、『ガンダム』シリーズを延々語り続けるのではなく、『SEED』を中継点としつつ、今世紀のロボットアニメ全般を考えてみたいと思っています。
まず考えてみたいのが、『SEED』シリーズのキャラクターデザイナーである平井久司についてです。私は大雑把な仮説として、「今世紀のロボットアニメのイメージを形成したのは平井久司キャラである」と考えており、とりわけ『無限のリヴァイアス』(1999~2000)以降、彼が関わった作品の系譜を考えることが、今世紀のロボットアニメを理解する上で非常に重要とみています。この後『スクライド』(2001)、『SEED』2作、『蒼穹のファフナー』(2004)と、立て続けにキャラクターデザインをすることで、とりわけゼロ年代前半のロボットアニメのヴィジュアルイメージを印象付けており、その後も『鉄のラインバレル』(2008~2009)や3DCGバトルの評価が高い『銀河機攻隊 マジェスティックプリンス』(2013)、そして『蒼穹のファフナーEXODUS』(2015)などのタイトルによって、今なお存在感を示しています。
はじめに『無限のリヴァイアス』を取り上げます。同作は『∀ガンダム』と同じ1999年のアニメであり、結果的に世紀転換期を画する要素をいくつかみせています。『コードギアス』の谷口悟朗の監督デビュー作である点も、後の展開を考えると重要でしょう。漂流を強いられた宇宙船で少年少女がサヴァイヴする基本設定が、ファーストガンダムの初期設定としてあったジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』の再話という性質をみせています。ですが、1980年代の『銀河漂流バイファム』(1983~1984)のような「青春ジュブナイル」というよりは、むしろゴールディング『蝿の王』(1954)や楳図かずお『漂流教室』(1972~1974)に近い、ギスギスした人間関係から生まれるシビアな抗争や、ティーンズならば実際には当然持ち上がるであろう様々なセクシャルな諸問題(恋人の乗り換え、性的暴行etc.)を描いていた点も『リヴァイアス』の興味深い点と言えるでしょう。最近観直してみたら、予想以上にいい感じにギスギスしていました(笑)。なお、谷口悟朗監督の2019年のロボットアニメ『revisions リヴィジョンズ』は、より明確に『漂流教室』を意識した設定になっていました。
一般的にロボットアニメは性的描写のハードルがかなり低いジャンルとなっています。これは明らかに富野由悠季の「正の遺産」だと思います。近作だと『革命機ヴァルヴレイヴ』(2013)の第10話が軽い衝撃を与えました。「美少女ゲーム」(すなわちエロゲですね)原作のアニメですら、可能な限り性描写が避けられる傾向があるように思われる(だからこそ時折『ヨスガノソラ』〈2010〉のような衝撃作が現れるわけです)なか、『SEED』もそうですが、ガンダムをはじめとするロボットアニメではしばしばそんな制約がないかのような様相を呈しています。『エヴァンゲリオン』でもミサトと加持の性行為が声で暗示されただけでなく、大学生時代に数日部屋にこもって出てこなかったという微妙に生々しい過去エピソードが語られていました。
何もこうした話題を興味本位に持ち出しているわけではありません。ここには重要なテーマがあるように思われるからです。日本のロボットアニメにおけるロボットが、拡張身体としての性質を持つことは広く知られていますが(宇野常寛さんのロボットアニメ論の要点ですね)、同時に、ロボットの傍らで、ティーンズ男女の性的身体をめぐる諸問題が繰り広げられてきた「伝統」をみることができるのではないでしょうか。『クロスアンジュ 天使と竜の輪ロン舞ド』(2014~2015)の中盤と終盤でヒロインのアンジュとその恋人(?)のタスクが行う性的行為は、観た人ならばわかると思いますが、結果的にあまりエロティックなものには見えない不思議な場面となっていました。「ロボットアニメのカップルならばありえることだ」という感覚が呼び覚まされるとでも言えるでしょうか。総じてロボットアニメにおけるキャラクターたちの性的身体の扱いは、他のアニメジャンルとは異なるものとなっているわけです。
ロボットアニメが数多く作られた時代としては、ポストガンダムとポストエヴァの二度あったわけですが、性的身体の表現に関して、強度や深度において原点の富野由悠季に匹敵する作品はなかなかなかったというのが正直なところです。
たとえばファーストガンダム時点ですでに、シャアとララァがアムロの大活躍をテレビで見る会話場面において、二人の関係性があからさまに性的なものであることが暗示されていたわけです(端的にいうなら、性行為後のピロートークのような雰囲気に満ちていたということです)。ガンダムは制約と約束事の多い不自由さが目立つアニメとみなされがちですが、メインのテレビシリーズが富野由悠季以外に委ねられるようになってからも、作中にセックスが出てきたとしても「ガンダムだしな」でなんとなく通ってしまうところがあるのではないでしょうか。『SEED』で多くの人に衝撃を与えたキラ・ヤマトとフレイの性描写(第16・17話)は、BPOに抗議があったことで知られていますが、もしもこれが通常の学園ものジャンルだったなら、衝撃はもっと大きなものだったと思います。
もう一点、『オルフェンズ』でもしばしば見かける展開ですが、ロボットアニメでは主要登場人物が死亡する展開があったとしても、なんとなく「そういうジャンル」とみなされているがゆえに、衝撃はありつつも一定の許容が生じているのではないでしょうか。他のアニメならば「こういう展開は視聴者に嫌われる」と判断されるようなものであっても、性と死に関してはわりと融通が利くところが、ロボットアニメのひとつのアドバンテージなのだろうと考えています。
『オルフェンズ』で衝撃を与えた設定のひとつに、名瀬・タービンがあからさまにオープンな仕方でハーレムを築いていたことがあるでしょう。一見すると『Zガンダム』のシロッコにも近い雰囲気にみえますが、シロッコが側近を女性で固め、しかもいずれのキャラも愛人であるかのようなハーレムの雰囲気を作りつつも閉鎖的だったのに対して、名瀬のオープンハーレムでは、生まれてきた子供の託児所も完備というエクストリームな設定が興味深いところです。多数の「妻」を抱えつつも、各女性が他の男性に惹かれることそのものを否定しないという名瀬の懐の深さは、近年のジェンダー論でいうところのポリアモリー(複数の人と同時に、かつ合意の上で関係を築く性愛のあり方)の実践と言えるのかもしれません。
『オルフェンズ』については一点補足しておく必要があるでしょう。序盤からのピカレスク展開時点で織り込まれていたはずの、主要キャラの破滅という展開が視聴者に好まれず、今なお否定的に語られることも少なくないなか、鉄華団リーダーだったオルガ・イツカの死の場面が、「止まるんじゃねぇぞ……」というセリフ込みで盛大に「ネタ」消費の対象となったことについてです。オルガの死が「ネタ」になってしまった理由としては、主役級のキャラが死んだことそのものよりは、『オルフェンズ』における重要人物の退場が、モビルスーツ戦よりはヒットマンによる暗殺が目立つという「リアリズム」に、割り切れなさを感じた人が多かったことの反動という側面があるように思われます。こうした描写はかなり意図的なもので、作中で最強兵器とされていた「ガンダム・バエル」が、徹頭徹尾弱そうに描かれていたことも含めて、「オルガさん」(ネタ化されると敬称が付く傾向があります)の扱いは『オルフェンズ』の攻めた作風の副産物なのかもしれません。ある時期までは一部で執拗に嫌われていた『SEED』が今では再評価されているように、『オルフェンズ』はその帰結も含めて重要作品だと私は考えているので、ネタ化の果てにその魅力が見直されることを望んでいます。
さて、以上見てきたようなロボットアニメのアドバンテージを考えてみると、『無限のリヴァイアス』が初監督作だった谷口悟朗が『コードギアス』において、人間関係をめぐるときにどぎつく映る展開を多用したことの意味が明確になるのではないでしょうか。『コードギアス』の人気に、ロボットの存在があまり関係ないとみられがちであることについては本書で触れました。これはおそらく、『コードギアス』には、アッシュフォード学園を舞台にした学園ものとしての性格があることに由来するように思います。要するに学園ドラマとしても楽しめる面があったということですね。
しかし、戦いのさなかでも学園イベントが淡々と進んでいくという、バッドテイストギリギリのハイブリッドなバランス感覚は、単なる「全部乗せ」的な企図からきたというよりは、むしろロボットアニメだからこそ許容されやすくなった、性的展開や主要登場人物の死などを受け入れやすくする「装置」としての面があるのだと思います。
すなわち、『コードギアス』がロボットアニメであることの意味は、スザクのランスロット無双などを見ることができるだけではなく、富野由悠季以来ロボットアニメジャンルで閾値が大幅に下がった、ティーンズドラマとして可能な展開の振れ幅を活用できることにあったのだと思います。たとえば『コードギアス』第6話「奪われた仮面」は、ある意味、第1期最大のピンチのひとつだったかもしれないルルーシュの正体バレの危機が、よりによって猫に仮面を盗まれるという小芝居めいたものだった点で目を惹きます。これは学園ものならばごく普通の展開ですが、人の生死がかかわるシリアスドラマが基調のロボットアニメだったがゆえに、より「面白い」ものとなっていたように思われます。
このように、『コードギアス』がロボットアニメであることのメリットは、何もどぎつい場面には限られず、猫がイタズラをするという一見些細な展開ですらも「学園」と「戦争」のミスマッチとして機能することにあったのだと言えるでしょう。こうした側面を考えるならば、ロボットアニメを単なる中高年アニメファンの郷愁が目立つジャンルとのみ捉えるのではなく、時代の変化に応じた多彩なドラマ展開のブースターとして用いていくことは十分可能だと思います。といいつつ富野由悠季ファンとしては、『Zガンダム』や『機動戦士Vガンダム』(1993~1994)、そして『伝説巨神イデオン』の衝撃を超えることはなかなか困難そうだとも思ってしまうのですが。
(了)
▼プロフィール
石岡良治(いしおか・よしはる)
1972年東京生まれ。批評家・表象文化論(芸術理論・視覚文化)・ポピュラー文化研究。
東京大学大学院総合文化研究科(表象文化論)博士後期課程単位取得満期退学。
早稲田大学文学学術院(文化構想学部)准教授。
著書に『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社)
『「超」批評 視覚文化×マンガ』(青土社)
『現代アニメ「超」講義』(PLANETS/第二次惑星開発委員会)など。
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