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人と教育 恩師の面影(1) 小学生の時代

            

    3,4年担任の及川良子先生


 たくさんの先生に教わったのに、恩師と呼ぶ人を、自分史に見い出すことができない。改まって聞いたことがないから、どの位そういう人がいるのか分からない。ここでいう恩師とは、好きだった先生でもいい。なら、一人、二人の先生を思い浮かべることはできるだろう。でも、「偶然」の仕業で、それもかなわないことがあるかも知れない。

 いい加減年を経てくると、自分の生き方に影響を及ぼした先生方のことを思いだし、自分なりにその「恩」を語り残しておきたいと思うようになってくる。

 教育とは何ぞや、と問うことに意味がないわけではない。けれども、具体的な形を抜きに論じても無意味だろうし、説得力もない。欠くことが出来ない問題の要は、先生だろうと思う。

 戦後すぐに生まれた僕の場合、小さい頃は大正生まれの先生は中堅どころで、昭和一桁が若い先生だった。恐らく僕の年代が定年でとっくに学校を去った今とは、相当違うかも知れないし、僕にはその違いを論じる資格はない。ただ、その道を教え導く教師に出会える環境や機会が欲しいのは、いつに変わらぬ願いだとは思う。

 「自分の生き方に影響を及ぼした先生方」と書いた。思えば、お一人お一人に異なった教えを受け、自ら考え、ここに至ったのである。「恩師」とは、そういう師であろう。

 個人的なその体験は、一人一人のものであるが、それだけではないかも知れない。僕の場合、自分史を通じて、広がりが見えるならそれに越したことはないと思って、綴ってみる。

 初めに圧倒的に先生の役割を果たすのは、言うまでもない、親である。僕の両親は、自分が中学3年の時に離婚したのだが、その頃はそれなりの判断力があった。しかし、小さい頃は異なる。僕がこの世に生をうけた時代、ほとんどの人は、同じように貧しく、同じように腹を空かせ、つぎはぎだらけの服を着て恥じなかった。昭和20年代の親は殊のほか生活に大変だったはずである。

 その頃の親は戦時を体験して生き延びてきた人たちだ。だから、「自由」の有難さについては、親たちの節々の言動にあらわれていたと思う。しかし、昭和に入って敗戦まで、一様の仕方で統制されてきた人々、日本国民、臣民なのである。上から押し付けることを簡単には捨てきれない。上意下達ですね。だから、子どもながらに「自由」を求めた。「自由」を押さえつける力には抵抗した。

 僕は、カトリックの幼稚園に通っていた。美しく背の高いナン(修道女)が、大勢の園児に話をすることがあった。なんでも、スペインの方と聞いたような気がする。キリストの話を通じて、「愛」という語を特別に思い、何か尊い精神を伝えられたような気がする。

 遠足の集合写真に残っている若い女の先生、最前列にいた僕の肩に手を乗せている。何気ないこんなことがずっと忘れ難いのだから、幼稚園が愛と自由の香りを伝えたし、きっと楽しい幼少時代を授けてくれたのだとも思う。有難かった。

 1年生の末に母の頼りにした義父(僕の祖父)が亡くなった。戦争体験がそうさせたと今でも思っているが、父が大酒飲みであったことが大きく、直ぐに引っ越しをして、2年生から小学校を変わった。そして、3~4年生時代の及川良子先生と出会ったのである。名前を言える最初の「恩師」だ。

 引っ越し先は同じ横浜市内だが、見知らぬ級友からいきなり知らない算数の計算問題を出されて、すっかり当惑した。友だちが黒板に書いた3+2の+が分からない。前の小学校では、「1と1は2」というように、記号を一切使わずに教わっていたのである。-は「引く」と言っていた。すなわち「3ひく1は2」である。僕は、記号のあること、記号を使うことを全く知らなかった。

 このことから、新しい学校での教科学習がひどく抵抗感の強いものになった。「飛躍」はダメ、順を追ってということを後に理解するのだが、それは、がむしゃら勉強が良くないと思う根拠になった。

 頭ごなしの押し付け的学習に嫌気がさしていた中、3年生になって、人(子ども)の心を大切にする担任、及川先生のクラスに入った。母と同年か、せいぜい2~3歳年長の30代半ば過ぎの先生で、ご主人は刑事であるとはみんなの噂であった。及川先生は作文(綴り方)教育に力を入れてくれた。クラス会(学級会)での議論も活発で、そういうことなら僕も集中して授業に臨めた。

 ある時、図工科でガラス絵の課題が出た。僕は考えて宇宙空間と人工衛星の組み合わせを描いて先生に提出した。先生は、我が母に「構想は大きいが、まだそれを支える技術が育っていないから、これからに期待したい」旨のことを伝えたということだった。フーン、そうなんだと分かったような分からないような気持がした。

 また逗子海岸で、砂を掘って遊ぶ僕と数人の級友を写真に収め、大きく引き延ばして僕たちにくれた(下さった)。貴重な思い出となっている。

 その優しい笑顔の先生が、クラスの悪ガキを教室の前に呼び出して、ゴツンと叩いたことがある。及川先生を怒らせるほどのことがあったのだろうが、僕には何があったのか分からない。ただ、優しいだけではない先生の一面を知って、少し驚いたことを覚えている。そうそう、悪ガキと書いたのは、いつか昼休みに、彼に絡まれ黒板の所で胸ぐらをつかんですごまれたことがあったからだ。何が何だか、その理由が分からない。いきなり来たのでびっくりして、あっけにとられた。それ以上には行かなかったが、容易ならざる暴れん坊が彼だった。

 ぶってはいけない、体罰禁止の今日の教育を認めるとしても、それでは収まりようがない時代もあったということだろうか。チカラを求める子だっている。子どもも、環境も様々である。きれいごとを言う学者は、形はきれいだし、正義の味方なんだろうが、何とかならないかと思うことがあったりする(笑)。

 総じて、及川先生からは「愛」の温もりを日々感じていた。安心して学校に向かえた。わが恩師たるゆえんである。

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