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ハイコンテキスト? もっと日本を考えたい。

                   2024年6月25日 ー 7月11日
 最近納得がいったばかりなのだが、自分を含めて、余り日本を知らない日本人がかなりいて、米国の占領政策を民主主義の到来と歓迎したのではないかということである。急きょ作られた新しい憲法(僕は堅苦しい法律作文から抜け出ていないのが昔から気になっている)で、戦前の日本を清算したと大体思ってきた。
 疑い深さでいえば、三権分立など、政府主導ではないかと思われる「抜け道」を中学3年生時代から思いはしたが、根本的には、戦前のおぞましい記憶を払いのけるのが民主主義だし、新しい民主憲法だという認識があった。そこを否定するわけではない。つまり戦後の歩みや法的世界は、簡単にでも、抜本的にでも全否定できるような話ではない。しかし、戦後の出発点を勉強し直してみると、丸ごとうなずく訳にはいかないと考えるようになった。笑われても、本当のことだから仕方がない。

 僕たちの思考は、学校や先生、著作や諸々の文章等で形作られていく。
 今思うに、例えば、戦後に限られないし、日本だけではないことだが、発禁とか焚書とか検閲の問題がある。これは学校教育にも影響することであるが、GHQの権勢、権力のことを冷静に考え、それに唯々諾々とする体制がなかったか、あるいは外国の「社会主義国」や左派勢力のまねごとを真実と思って思索し、行動する勢力がなかったのだろうか。
 書物の没収・廃棄が、具体的には7,769冊あったという数量的な指摘があったりする。皇室や国粋主義関連だけでなく、経済と戦争、歴史に関する考察や資料なども消し去られただろうが、実際にはこの数字以上のものがあったかもしれない。これだけ多数の書物や論考を選定することなど、いくらGHQでも可能ではあるまい。著作や論文、思想家、作家、思想家に相当通じていた日本の知識人の判断もあったろう。僕は、その流れに従ったり、抵抗したりして、時代はつながっていったのだと思う。

東伊豆・城ケ崎

 端的に言うこと、初めはとも角、独立した思考や発想などが後手に回り、報道機関(マスコミがその代表)とそのプロデューサー、企業等の健全な独立と自由の精神が徐々に弱まっていったのではないか、ということである。どの人びとや組織に属しているかとか、親しい関係かとかいうことを基準にしてきたのではないだろうか。もしそうだとすれば、言い過ぎに聞こえるかもしないが、戦前の「大政翼賛会」に流れ込んだ世相を本質的には抜け出ていない、と言わざるをえないのだ。
 覚えることを第一にするなら、整理して提供し、分かり易く説明するのが一番である。読者も生徒も喜ぶ。しかし、歪んだことでも、偏ったことでも、覚えやすく整理することができるのだ。学習が知的になるのは、頭の中であれこれ納得しながら進むことであって、覚えやすいかどうかで決まるわけではない。その面からみると、果たして日本の学習が適切なものであったのかどうかを考えなければならない。単に、競争反対などの話でまとまるわけではないのである。安直に受験競争を受けれてしまうのは論外だが。
 だから、覚えるのが勉強と思っている人を除けば、学校教育的な本や教師は面白く思えないのである。前回紹介したウェルズもモンタネッリも様々な職業航路を経たジャーナリストだった。ジャーナリズムというと、売らんかな商売と思っている人も少なからずいるだろうと思うけれども、読んでいて引き込まれるのは、幅広い知識と、深い考察の後が本来のジャーナリストにはあると考えるのである。

 ところで、30歳になったばかりの廣津留すみれさんというバイオリニストがいる。彼女の名は知るだけで、えらい学歴を持ってるんだなぁと思うくらい。つまりハーバード大学出身で、ジュリアード音楽院の大学院を優秀な成績を修めて出たということである。その彼女が、テレビでこう指摘したという。ネットで、6月21日のスポニチの記事を読んでの話である。
 文化人類学の知見でハイコンテキスト(high-context)という語があるそうだ。廣津留さん曰く、「日本は凄くハイコンテクストな国」と思っていたが、最早そう言えないのではないかというのである。「米国は契約書に細かいところまでルールを定めたりする。ある程度、共有した価値観を今まで日本は持っていたので、そこまで細かいルールを決めなくても今までよかったものが、だんだん地盤が変わって来ていろいろな人が出てきた。」と。
 ハイコンテクスト?英語だとhigh-context と書くそうで、僕は初耳だった。ネットによると、「コミュニケーションの背景や文脈の共有されている割合が高い状態」を指すんだそうで、「コミュニケーションの背後に共通認識があるため、言葉で示さなくてもなんとなく意味が通じることが特徴」だという。僕の世代(俗に団塊と言われる)までは、日本にはそういうところがあると大体納得すると思われるが、言われてみればそれはもう通用しまい。
 だが、日本の至るところで、「型」は生きている。広い意味でなら、国際的に認められはするのだが、ここは日本。日本ならではのことを思うと、歌舞伎、能、日本舞踊では「型」の習得が求められる。
 生活習慣でもそうだったのである。挨拶はとっても大切だった。声がけもそうだ。しかし、僕の小学校時代、それらは軍国主義の時代の名残りだという先生がいた。その考え方を国全体、ありは社会全体が支持したわけではないのだが、時間が経つにつれ、こうした「型」がないがしろに慣れてきたように思う。なぜか。どういうことか。
 次回は、こうしたことを取り上げたい。

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