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コザの夜に抱かれて 第7話

 目を閉じて、みゆきは本棚の前に立った。そっと、その白い手を伸ばし、適当に本をとった。武者小路実篤の<真理先生>だった。みゆきはそれをテーブルに置いて、薄いコートに着替えた。肩から下げる、茶色の小さいバッグに本をいれて、外に出る。
 久しぶりの日ざしだった。夜の世界で生きるみゆきにとっては。しかし、彼女はそれに一瞥もくれることなく、いつものバス停にむかって歩き出した。
 バス停には誰もいなかった。みゆきは時間を確認し、十分程度の余裕があることを知ると、備えつけのベンチに座って、小説を開いた。
「――やっぱり、読みにくいですね」
 二、三ページ読んだところで、みゆきは本を閉じた。ただ、街行く人波を眺めていた。
「いらっしゃいませー」
 みゆきはメガネ屋についた。店員に軽く会釈し、整然と並んでいる新しいメガネを見た。メガネはいろいろある。ピンクや金の縁取り。プラスチックの白。それらをさっと見ていると、どこからか声が聞こえた『君には、銀色のメガネが似合うね』。みゆきは微笑んだ。丸いメガネをかけた、スーツ姿の店員が見とれている。
「すいません」
「はい!」
「この黒いプラスチックのメガネをください」
「ありがとうございます! それでは視力の方を計りたいと思うのですが…」
 そう言われることがわかっていたみゆきは、カバンから封筒をとり出した。眼科の病院でもらった診断書だった。店員はそれをあわてて受けとると、言った。
「一時間くらいかかりますが……」
「待っています」
「いいんですか?」
「夜の仕事なので」
 そう言うと、みゆきは店の端の席に座り、本を開いた。何人かの客が来た。男性客はみゆきを一瞬、見た。女性客は見て見ぬふりをした。すこし日が傾いたころ、みゆきはしおりをはさんで、本を閉じた。ヘッドフォンを忘れていることに、彼女はそこで気づいた。しかたがないので、耳にイヤホンをつけてアイポッドをシャッフルにした。エスティ・ローの<週末ガイダンス>が流れた。彼女にはすこし心地よかった。
「あのー……」
 店員が声をかけてきた。
「はい?」
「メガネ、できたんですが……」
 みゆきは立ち上がってカウンターの前にむかった。店員が反対側に座る。
「こちらになります」
 目の前に、新品でピカピカ光っている黒いメガネがあらわれた。みゆきはそれをじっと見ている。店員はそれが五秒なのか一分なのかもわからなかった。
「あのー…」
「きれいですね」
 店員の男性は、胸をつかまれた気がした。表情がゆるんだのを、みゆきは雰囲気で察した。それから自分のバッグから、ちいさな紙をとり出した。名刺だった。それをなにも言わず店員にわたした。
「え? あ、あの……」
「もうこの店には二度と来ないので。よかったら来てください」
 ニコッとみゆきが笑う。もう、男と女の世界だった。そして男は完全に骨抜きだった。誰がどう見ても、勝ったのはみゆきだ。彼女は真新しいメガネをかけた。見える世界は新しかった。そして、金を払うと、イヤホンを再びかけて、真新しい街に出ていった。

 牌のぶつかり合う音が、事務所に響いている。まだ開店前だった。みゆきはそれをぼんやり眺めつつ、タバコを吸っていた。その日は、みゆきは予約でいっぱいでフル回転しなくてはいけない日だった。
 麻雀も終盤。岬はわかっていて赤ウーピンを切った。
「ロン!」
 幸枝が叫んだ。岬はがっくりと肩を落とした。
「マイナス九は痛いって! あーもう! 今日はいいや誰か代わって!」
 その日、出勤している女は、みゆきを含め七名だった。ギャンブルのたぐいは一切しないみゆきは麻雀がはじまったら、適当に過ごしていた。みゆきのとなりに岬は座った。
「みゆきさん。タバコ一本もらえないっすか?」
「いいですよ」
 みゆきはハイライトのタバコを一本とって岬にわたした。ふたりで並んで紫煙をふかす。岬は、みゆきの新しいメガネに気がついたが、なにも言わなかった。寿命の近い蛍光灯がちかちかと点滅した。
「そう言えば、みゆきさんって、ここで一番長いっすよね?」
「ええ。おそらく」
「以前はどこで働いていたんですか?」
「サンエーの、食品加工工場です」
「あー、弁当とか作ってたんですか?」
「いえ、豚の解体です」
 ふたりの話に、雀卓の上の手が、止まる。
「へ、へえー。そうなんですね」
「豚の悲鳴はいいですよ」
 しん。一気に控室の空気が凍りついた。みゆきはくすくすと笑った。
「嘘ですよ」
「――なんだー。びっくりしましたよ! 嘘つきですねー。みゆきさんはー」
「……そうですね。でも、嘘のない世界なんて、美しくないじゃないですか」
 皆の目にはそう言って笑っているみゆきが、なぜか寂しげに見えた。
「おい、お前ら。開店だぞ」
 控室に店長が入ってきた。麻雀を打つ手を全員が止めた。
「みゆき。今日は頼むぞ。この時期、稼ぎ時だ」
「はい」
 みゆきはタバコを消して、ミンティアをひとつ噛むと、振り分けられた今日の自分の部屋を整えに、階段を上がった。彼女は月を見た。薄い月が、空に浮かんでいる。
「そろそろ、生理休暇ですかね」


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