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叔父の魂を見送る彼女は小さく笑った。

長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉

第1章 彼女と魔法と吸血鬼②

 陰陽師の乗ったSUVが走り去ると同時に、今度は市内の方から救急車の音が聞こえてきた。同行しつつも遠くから見ていただけの役所の担当者が、ようやく負傷者の存在に気づき手配したのだ。さらに一人の役所の担当者も電話を耳に当てていて、テント内は一気に場が騒がしくなった。

 市内に配置されている全ての救急車が集まってきたような赤いランプの明滅を、湖澄はじっと見ていた。

 残された陰陽寮の職員が安全帯のようなベルトを回収している。どうにか一本欲しいと思ったが、無くなればおそらく数が足りないことにすぐに気づくだろう。

 役所の人間が待機していた場所から、担架に乗せられた男が運び出されてきた。治神団の作る人の壁の外にあった場所は戦いの影響は受けなかったはずだが、彼は違ったようだ。


「藤村さん、藤村さん!」
 一緒に待機していた同僚がしきりに声をかけるが、担架に横たわった男はぴくりとも反応しない。

「あら、楽しそ」その様子を見ていた湖澄の口元に、笑みが浮かぶ。「こんな所で最後を終えるなんて残念ね、叔父様」そしてすぐ横に浮かぶ魂にも微笑みかけた。


 地上で「藤村」と呼ばれたごま塩頭の男は滲み出た恐怖に顔を歪ませながら、湖澄の顔と彼女の前に立つ人物とを交互に見ている。

 気が付けば、いつの間にか湖澄の前には死神が姿を現していた。薄紫のヘアカラーに大きく胸元の開いたカットソーにタイトスカートといういで立ちには、どうしたって大きな鎌は不似合いだ。


「お迎え? いいえ、彼はそちらには行かないわ」

 その言葉に無言で頷くと、彼女の姿はパッと消えた。基本、彼らは死人の魂としか会話をしないが、こちらの言葉が通じない訳ではないし、必要があれば口も開く。

 今のパターンは恐らく、向こうとしても湖澄の言い分が予想の範囲内だったためだろう。

 物分かりがいいのはいいことだ。

 人間もこのくらい素直ならいいのに。と、横目で「叔父様」と呼んだ藤村を見る。

 死神に去られたせいか打ちひしがれたような顔をしている。

 森の中から立ち上がってきた白い大きな氣の塊が口を開け、藤村の魂を飲み込んだ。
「さようなら、叔父様」

 大きな存在に飲み込まれるのを感じながら藤村は、微笑む姪を見た。その表情は昔と何ら変わらなかった。

 まだ彼女が幼く、無防備に自分達夫婦を受け入れてくれていた時代。
 あの時自分達は彼女に何をしただろうか。
 そして彼女は何故赦してくれたのか。

 ああ、どうしてこうなってしまったんだろう。自分は治神団の作る戦いの輪から離れた場所にいたし、距離的にも鵺やあの不気味な人形の力が及ぶような所ではなかったはずだ。
 もっと早く市内に滞在している陰陽師に姪の正体を話していたなら、死は免れなくともあるいは死神に連れて行ってもらえたかも知れない。

 そして津宮での有泉の支配は終わり、水の獣の血も絶えるのだ。
 兄弟の絆さえも狂わす、呪いの血。
 獣は聖獣などではない。この世に波乱を起こす害獣だ。

 かつてあれほど欲した獣の血に、いまは興味などなかった。特別な力、特別な血なんて必要ない。
 ただ、普通の家族として繋がっていたかった。

 死神にまで見捨てられた今となっては、輪廻の先で再び会う奇跡を待つことも出来なくなってしまった。

 これが代償か。

 13年前、自分達が犯した罪の結果なのだ。


 巨大な白い龍のような氣のうねりは森を越え、山の中腹にある池へと吸い込まれていった。


 彼の魂は池のぬしの糧となったのだ。

 業の輪廻から外れ、新たな魂へと変わることもなく池の主のエネルギーとなりこの津宮の一部となる。次の肉体の魂として生まれ変われない完全なる消滅に彼は怯えていたが、人として死ねるのだ。それがどれほど貴いことか、じきに消えてしまう人の魂としての意識では知ることはないだろう。

 藤村が最後まで縋ろうとしていた魂に残る自我など何の価値もない。それはこの世界に存在するための形であり、書き換えが出来る記号の一部でしかないのだから。

 だからこそ、人の短い命は美しい。

 輪廻の輪に乗ることも、世界の一部になることもただの人であるから許される。

 だけどきっと獣の魂は、その両方も出来ないに違いない。
 深い闇の底で澱のように沈殿していくのだ。
 そうしてこの世界を安定させる土台の一部になっていくのか。
 いや、そもそも魂があるのだろうか。魂がないのならそれに付随する自我だって……。

「私には関係のないことだわ」

 気分を変えるように呟いた湖澄はまた、日付が変わろうとしている森の中の動きに注視した。

 森に展開された簡易照明が撤去されていき、無事だった治神団がそれぞれバイクやバギーに乗って移動を始める。

 浅間大社の駐車場に今回の作戦の「本部」が設営されている。彼らは一度そこへ戻り、預けておいた私物を受け取った後、念のために待機している医師・治療師の診察を受けることになっている。問題がなければ帰宅の許可を得た者から帰れるだろう。

 作戦が知らされたのが間際だったせいで医師は無理だったが、呪術治療師は知り合いに頼むことができた。できれば津宮の関係者は自分達でケアしたいので、陰陽寮からの呪術師が同行していなかったのは不幸中の幸だ。呪術治療師自体人数が少ないし、依頼した人物は表立っては津宮とは縁のない人物なので、特に怪しまれることもないはずだ。

 立ち去った陰陽師が湖澄の方を見ることは一度もなかった。

 人の目では誰も彼女の姿を見ることは出来ない。だが恐らく、何かいることくらいは勘付いていたと思ってもいいだろう。

 本当に彼は『鵺』を追ってきたのだろうか。

 逆にいうと、あの人形がありながらこれまで取り逃してきたのがおかしい気がする。
 それとも、彼らが予想し得ないことが起きているのか。

 陰陽師の連れてきた部下が最後に場を清めてから街に戻っていった。

 人気のなくなった戦いの場に、蛍のような残滓が残る。『鵺』としての力を失い、粉々になった龍脈の欠片だ。あと数分もしないうちに分解されてしまうだろう。

 場には他にも、歪な存在力によって生まれた歪みがそこかしこにあった。人形が天部の力を使った名残だ。

 先ほど藤村の魂を迎え入れた池から、濃い霧が湧き上がってきた。

 高台の池から発生したそれは津波のように湧き上がり、奇妙な存在同士の戦いに興奮した森をゆっくりと包み込みながら麓の方に流れてくる。

 

 霧は明日の朝まで留まるだろう。

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