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内なる思い、それぞれ。

長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉

第1章 彼女と魔法と吸血鬼③

 足元から立ち昇ってくる霧に包まれ、湖澄は目を閉じた。
 微かに潮の香りがする。

 水分を多く含んだ空気がゆったりと流れ、津宮の里や森をしっとりと包んでいく。
 自分の肌と、空気との境界が次第に曖昧になる不思議な感覚。


 冷んやりして、懐かしい気分だ。
 深くて大きくて暖かい光が降り注ぐ大海原。
 そこはいつか、自分がいた世界なのか。

 動物も植物もそれ以外も、生き物は皆いつか帰る場所を持っている。現在に生命活動を行っている肉体が知らなくても魂の奥底、小さな細胞だった頃の記憶の欠片。

 おそらく鵺のあの爆発は、鵺自身によるもの。つまり鵺は自死を選んだのだ。
 人形に囚われ絶望したのだろうか。

 鵺と呼ばれるほどにまで成長する前、龍脈から離れた直後のあの仔はどんな気分だったろう。大きな塊から離れ小さな存在となった時、寂しくはなかったのだろうか。

 還りたいとは、思わなかったのだろうか。


 目を閉じた意識の中に、小さな青い光が湧き上がってくる。
 少し寂しそうだが、喜んでいる。
 喜んで周囲に戯れる精霊達と楽しげに踊っている。

 そう……。
 解放されたのね。


 青い光達は湖澄の頬に触れ、淡雪のように消えていった。
 ばらばらになった龍脈を構成していた光達は存在力が低すぎて精霊にもなれず、空気のように世界に溶けていくしかない。

 急に騒がれ出した鵺という存在は龍脈から偶然剥がれた穢レ神なのではなく、意思を持って逃げてきたのだろうか。
 だから陰陽師が追ってきた。そう考えると大物が出てきたことにもすんなり納得がいく。

 玉都で何が起こっているのだろうか。

 霧の海に森が沈んで行くのを見届けた湖澄は、見物席にしていた送電塔から離れた。

 津宮の森は池のぬしが望まぬ存在の侵入を拒み、その霧は負の気配を浄化するとともに真実を覆い隠す。何を隠すかは主の気分次第。津宮の住人である湖澄はともかく、頭上で騒いでいたあの巨鳥を従えた妙な輩が見つからなかったということは、どうやら主の気まぐれで命拾いしたようだ。


「ただいま」

 帰宅すると、玄関で外出する父親の央道おうどうと出くわした。
「湖澄か」
 娘の顔を見て何か言い淀む。が一度は閉じた口をすぐにまた開いた。

「盛男が死んだ」

 黙って、湖清は頷いた。自分の叔父である藤村盛男が死んだと聞かされても、顔色ひとつ変えることはない。それについて央道は言うことも感じることもない。だがやはり、兄としては突然すぎる訃報に動揺を隠しきれない。


 こんな時間だ。一度は布団に入ったであろう父親の顔に疲労の色が見えた。
「何か、事故でもあったのか」

 連絡の中で、弟の死因は急性心筋梗塞による心臓発作だと聞かされた。あり得ないことではない。健康そうに見えても、年齢的に一番多い突然死の原因だ。

 だがそれでも聞かずにはいられない。市の担当として立ち会っていた現場は、ただの工事現場とは違うのだ。
 その異常な現場に娘もいた。彼女が陰陽師の鵺狩りを見に行くことを、父親は知っていた。年頃の娘が夜中に一人で森に、しかもそんなオカルトめいた場所に行くことに心配ではないと言えば嘘になる。
 が、それが彼女の役割だ。

「事故はなかったわ。ただ、激しい戦いだったから闘気にあてられて倒れたり負傷した人も出たわね。叔父様も多分、氣にてられたんだわ」

 嘘ではなかった。例え藤村が待機していた場所が戦いの場から離れ、一緒にいた他の人間には何も障りがなかったとしても、彼には何かしらの影響があったのだ。

 今度は央道が無言で頷く番だった。死因を口にしながらも、突然死では仕方がないという顔で、玄関から出ていく。

 娘の言葉に嘘はない。嘘か誠か見分けることくらい父親なら容易なことだ。そして弟の死に関わっていないのなら、いうことは何もない。もとよりあれは、13年前に死んでいてもおかしくはなかったのだ。

 運が悪かった。

 つまり、そういうことだ。
 いや違う。運が良かったのだ。
 13年も長く生きられ、兄弟として繋がっていられた。

「行ってらっしゃい」
 肩を落とす大きな背中に声をかけて、湖澄は見送る。

 家を囲む森の木々によって月光が遮られた暗い道を、央道は駐車場に急いだ。

 13年前のあの日、まだ7歳だった娘の湖澄を連れ去った藤村盛男は彼女を殺し、流産したばかりの自分の妻に食べさせようとした。その時湖澄を守ったのは、昔からこの家に使える荘汜そうしと呼ばれる存在だった。自分の主人が傷つくことを、あれは許さない。盛男を殺めんとする壮汜を止めたのは、他でもない湖澄だった。それ以来盛男は湖澄を避けてきた。いつか必ず彼女が仕返しをすると言って怯え続け、彼女の目の前で死んだ。死してやっと恐怖から逃れることができたのだ。

 そしてその死に娘が関わっていないのならば、何も問題はない。


「あら、帰ったのね」
 父を見送り、靴を脱いだところでパジャマのままの母親が出てきた。
「お父さん、何をグズグズしているのかと思ったらあなただったの」 出掛けたはずなのに、いつまでも玄関に人の気配がするものだから見にきたのだ。

「叔父様の連絡、早かったのね」

 救急車に乗せた時には既に魂はなかった。だが魂が無くなったからといって肉体はすぐに生体活動を止めたりしない。
 一度は病院に運ばれたはずだ。

「知ってたの?」
「というより見てたから」肩を竦め、続ける。「安心して。私が殺した訳じゃないから」

「当たり前だわ」
 当然というように顔を顰める母親に「ありがと」と言って小さく笑う。


 玄関先での娘と夫のやりとりを実は母親は寝室のドアの向こうで聞いていた。夫は、死にゆく弟の状況に対して彼女を責めることはなかった。湖澄ならおそらく、陰陽師がいたとしても助けることができただろう。だが藤村が湖澄や自分達夫婦に何をしたのかを考えれば、その死を受け入れざるを得ない。藤村の死を喜ぶわけではないが、その姿を目にするたびに母親は顔を背けたい衝動に駆られてきたのだ。

 あの姿をもう見なくて済むと思うとホッとする。だが、湖澄はただ彼の死を黙って見ていたのだろうか。それとも本当に迂闊には動けない状況だったのだろうか。

 「お風呂に入って寝るわ」

 残念ながら、ただの人間である自分達に彼女の感覚を理解することは出来ない。だが彼女が何であれ-最終的に何かになってしまったとしても、娘であることに変わりはない。

「そうしなさい。私も寝るから」
 眠たげに欠伸をしながら、母親は寝室に戻っていった。こんな娘を持ったからか、彼女はどこか肝が据わっている。それは湖澄にとってすごくありがたいことだったが、同時に後ろめたさも感じていた。


 肝が据わっているということは、その分覚悟をしているということだ。
 それも、どう転んでも「幸せな生涯だった」とはいえないような覚悟を。


 自室の前に行くと、暗い廊下に白い影が座っていた。
「お疲れ様です、お嬢さん」
「問題はなかったようね、壮汜」
 物心ついた時から姿の変わることのない青年は「はい」とだけ答える。
「後はいいから、もう下がりなさい」
 主人の言葉に深く首を垂れると、その姿は静かに闇に消えていった。


 予想はしていたが、今夜の出来事は湖澄の想像の斜め上をいく連続だった。
 陰陽師の人形、天部の存在力、やかましい観客。そして、鵺の自死。

 これまで平穏だった日常に、細波が立ち始めたようだ。
 静かな水面に投擲された「何か」が動かず波がじきに収まることを希望したいが、おそらくそれは無理だろう。
 永遠に形を変えないものなどない。「何か」もきっと形を変えていくはずだ。変化の速度が急激であっても緩慢であっても、影響は必ず出る。

 それが静かで、細やかなものであったらいいと願うのは楽観的すぎるだろうか。

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