シェア
和高
2021年10月18日 21:01
店の出入り口を正面に見て、亞伽砂は帳場に座った。小上がりに腰掛け足をブラブラさせた子供の頃は天面が首の下あたりだったカウンターの高さが、今ではちょうど文机に丁度いい。天面の下には棚が作られており、手提げ金庫といくつかの帳面と箱があった。昔と変わらぬように見える景色の中で目を引くものがあった。ついさっき花穂が出ていったカウンターの切れ目に置かれた、風呂敷を掛けられた大きな塊。何だろうか。取り出し掛
2022年2月6日 11:12
亞伽砂は史織と共に、2階の窓に暗幕を張っていた。 公宣はプロジェクターの高さを調整し、薄暗がりの中で得馬はパソコンに向かっている。 「やってるな。いい具合じゃないか」 予告もなく笠置が現れた。光が遮られた室内を満足そうに見渡す。 「勝手に入ってこないでくださいよ」 パソコンから顔を上げた得馬は、大きな笠置の背中に隠れるように立つ里子に挨拶した。 「声をかけても誰も出てこなかったんだ」
2022年2月6日 11:09
春も遅い長野の空気は、まだ冷んやりとしていた。 塚本という人物に本を確認してもらった亞伽砂たちは、彼から追加の依頼を受けた。それは、本を本当の持ち主に届けてほしいというものだった。だが生憎と塚本は、本当の持ち主の現住所を知らなかった。 「私が知っているのは、彼が高校卒業までいた実家の住所だけなんです。年賀状を書くときに使っていたので。残念ながら電話は覚えていませんね」 手帳を出し見せてくれ
2022年2月6日 11:08
大きな窓の外を自転車の親子連れが通り過ぎていった。 亞伽砂はじっと、目の前の人物を見る。 「言いがかりはよせよ」 夕食時のファミリーレストラン。 向かいの席で彼は鼻を鳴らした。 「俺があのチンケな店に行ったなんて、どこに証拠があるんだ。さっさと新しい男連れ込みやがって」 呟きにも近い最後の言葉は聞き捨てならない。が、亞伽砂は怒りの感情を表に出すまいと辛抱強く言葉を押し出した。 「見
2022年2月4日 20:19
暗闇に、大きなネズミが動いていた。否、格子窓から差し込む光に露わになるのは人の体だ。大きな背中を揺らし、湿った土蔵の床を舐めるように隅から隅まで目を凝らす。 「康徳や、研究所から電話だよ」 入り口から伸びる光の帯の中に母親の小さな影が立つ。頭に付いた埃を払い、飛騨康徳は受け取ったスマートフォンを耳に押し付けた。家に帰るとリビングのテーブルの上に置きっぱなしにしてしまうのだが、実家に帰ってもつ
2022年2月6日 11:10
もうすぐ日付が変わろうとする真夜中、慶子は連続して鳴らされる呼び鈴に起こされた。 パジャマの上にカーディガンだけ羽織り玄関に出ると、寒風の中見知らぬ男性が立っている。手には見覚えのある大きな包みと、菓子折りの入った紙袋を下げていた。 「夜分遅くにすみません」 男性は花村と名乗った。夕方、西の茶室でお茶漬けを食べるのに付き合わせてしまった少年、花村一騎の父親だ。 「これを、お返しに上がりま
2022年1月25日 20:28
夕方になり、故旗持瀞路邸の公開期間が終了した。 芝生の上でピクニックシートを広げていた家族も走り回っていた子供たちも、縁側に腰掛けて談笑していた拝観者も皆いなくなってしまった。 ただひとり、庭の北西に位置する茶室に入ったまま出てこない少年以外は。 この屋敷の公開を担当した市の職員や警備員、夫の弟子たちを玄関で見送る慶子をお手伝いの初江は見た。 「奥様、やはり私はもう少し」 声が少し震え
2022年1月2日 21:39
カウンターの上に置かれた風呂敷包みを開けることなく、亞伽砂は深くお辞儀をした。 「どうしても、預かってはいただけないんですね」 落胆した老女の声が静かな店内に流れた。その声はどこか疲れたようにも感じられる。 書家・旗持瀞路の名は亞伽砂も聞いたことがあった。80歳近くになっても精力的にライブイベントを行い、暴れるような筆裁きで豪快に書画を書き上げるパフォーマンスは、普段書に興味を持たないよう
2021年12月21日 23:08
頭上から降りてくる音がすると、店主席の出入り口に得馬が顔を出した。 「一応、綺麗にはなったと思うけど。見てみるかい」 亞伽砂の横でモニターを見ていた花穂が顔を上げる。このところ日を追うごとに季節は進み、夕方という時間ではあれど既に暖かい日差しは無くなり、モニターと蛍光灯の灯りに照らされた顔が青白く見えた。 「そうね。成果を見てみるとしますか」 答えると、かろうじて人が通れるほどに作られ
2021年12月13日 20:37
男ふたりが上にあがったあと、亞伽砂はすぐに公宣のスマートフォンに電話をかけた。ずっとこの家の通信環境はどうなっているのかと考えていたのだが、立ち上げたパソコンのモニターに見慣れたWi-Fiの印を見つけたのだ。店主席に電話の子機があるものの台所にもルーターの類がなかったので、てっきり見えないように敷設されているかと思って、亞伽砂はLANポートに接続されたケーブルがどこを通っているのか調べてみること
2021年12月9日 23:10
芳名帳を閉じ、旗持慶子は眼鏡を外す。歳のせいで眼鏡が合わなくなってきたようで、長く使っていると目が辛い。 今日の分の芳名帳には、あの鮮やかな髪の少年の名前はなかった。 10日間という期限付きの屋敷の開放。公開初日は土曜日でもあったことから日曜日の夕方まで、地元の名士の屋敷を一目見ようとたくさんの人が訪れた。だが当然ながら見学者は日を追うごとに少なくなる。特に平日はまるで街の人間が消えてしまっ
2021年12月3日 23:54
金曜日。平日昼間のホームセンターは驚くほど客が少なかった。得馬は今日、笠置と共にビッグ・ハンド側の担当者との打ち合わせに来ていた。 「計画では新店舗は床面積も伸びるんですよね」 「ああ。4分の1にデベロッパーを入れる」 「てんこ盛りすぎやしませんかね」 午前中の会議の様子を、思い返す。サーバーや電設の敷設は携わったことはあるが、これほど大掛かりで自分が中心となるのは初めてだ。将来的に今回
2021年12月2日 19:53
店に戻ると、泣きべそをかいた亞伽砂がカップを片付けていた。 「駐車場、教えてあげたよ」何食わぬ顔で公宣は入り口の木の引き戸を閉めて、カーテンを引く。亞伽砂の涙を見るのは辛いけど、今回は彼女が悪い。そう思うも、日曜日の出来事が頭を過ぎった。 俺はあの人と同じことをしているのかな。 いや、違う。あいつみたいに手をあげてもいないし、無理なことを押し付けてもいない。ただ彼女に、素直になってほしい
2021年11月10日 21:07
「まだ使ってるの、ブックカバー」 公宣が目を丸くした。 「便利だよ。本は汚れないし、漫画でもバレないし。僕は結構いくつか使い回してるんだけど」手にしていた文庫本を開き中を見せる。日曜日に家具を見に行った帰りに、駅ビルで見つけたのだ。昔のコミックスがこうして文庫本となり復刻したのは知っていたが、実は購入は初めてだった。 好奇心に目を輝かす公宣の手に促され本を渡す。「珍しいから残しておい