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教師と生徒という二元論をどう超えるか、ランシエールの『無知の教師』から考えてみた。

今年度は毎週高校に通うことで、NPOという構造的な外部性や介在的な性質のなかでの<課題解決>との向き合い方について、もやもやと考えてきた。問いの起点は、生徒たちの名前がなかなか覚えられないこと、同時に生徒たちから自分自身への関心も薄かったという壁だ。授業が終わると気を張っているのか、どっと疲れる自分がいた。
それは、これまで一日限りの出張授業を届ける機会も多かったため、たった一度の時間のなかで生徒たちの状況を把握・判断し、できる限りいい時間を届けたいと思うゆえ、「相手を変えたい」「何かを与えたい」と意気込み向き合ってきたからではないか。
つまり、「相手を変えたい」と思いながら向き合うことは、その前提条件が邪魔をしてしまって相手のほかのところが見えにくくなる。「変えなければならない相手」とは、自分が一方的に決めたことであり、「変えなければならない相手」がいるのではなく、「相手を変えたいという自分がいる」ことだけが明確な事実だろう。この姿勢では、生徒と自分自身に優劣があることが前提にされており、優位に位置するという関係では、教師や教育者の解へ導こうとする強い意図や力が生じる。・・・ここまでが、前回のおさらい。
>>  https://note.mu/wako_i/n/n43237b2d8e3e

そんな当初の自分のふるまいを、「愚鈍化した教師」と強く批判したフランスの哲学者がいる。1940年アルジェリア生まれのジャック・ランシエールだ。
代表的な著書『無知な教師』において、教師ジャコトが、フランス語が分からないオランダの学生たちに対して、なんの解説もなく、フランス語の書物を暗記させ、ジャコト自身はまた学生たちのオランダ語の回答を理解できないにもかかわらず、質問を投げかけつづけたところ、見事に学生たちがフランス語を取得してしまったというエピソードから始まる。ここから説明することを教師の役割の前提と捉えている教師を「愚鈍化した教師」と呼び、ジャコトのように、教える・説明する・理解させることを前提としない「無知な教師」を理想的な教師とし、次のように論じたている。
 
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“説明は、理解する能力がないことを直すために必要なのではない。反対に、この無能力こそが、説明家の世界観を構造化する虚構なのだ。無能な物を必要とするのは説明家であってその逆ではない。無能な者を無能な者として作り上げるのは説明家である。何かを誰かに説明するとは、まず第一にその人に向かって、あなたは自分ではそれを理解できないのだと示すことだ。説明は教育者の行為である以前に、教育学の進学、すなわち学識豊かな者と無知な者、成熟した者と、未熟な者、有能な者と無能な者、知的な者とばかな者に分かれた世界という寓話である。”

さらに「愚鈍化した教師」は聡明な者ほど陥りやすいと言う。自分の知と無知の者との距離がより明白であるように思えることで、高い気配りをもって、理解させるために、より筋道のたった説明を心がけてしまうということだ。ランシエールは、それこそが全ての悪の根源であり、知性の世界を二つに分割し、理性を本来の道の外に追い出してしまうと批判する。

“鞭打たれるのを恐れつつたどたどしく読む子供は、鞭に服従し、ただ自分の知性を他のことに使うようになるだけのことだ。しかし説明を受ける子供は、理解するという作業、すなわち人が説明してくれなければ理解できないと理解するという喪の作業に、自らの知性を注ぐことになる。彼が服従するのはもはや無知にではなく、知性の世界の序列にある。”

この本に書かれていることは、自分にグサグサと刺さる。愚鈍化という言葉も強い。でも、ここで二つの疑問が浮かんでくる。一つ目は、とはいえ教師ー生徒は、学校という構造上、平等になることは不可能だ。年齢も、経験も、知識も、そもそも授業料を払っている者と、給料をもらっている者であり、あらゆることが事実として差がある。二元論は批判したくとも、立場が違う。「無知な教師」でありたいと心がけることは重要だが、「無知な教師」になることは不可能ではないだろうか。
そして二つ目は、何故自分は、ランシエールの指摘を知らないままに、自分のふるまいの愚鈍さに気づけたかということだ。

なんとなく、PBLをやっているからだという答えが浮かんでくる。PBLでは答えを誰も持っていないし、教育者の役割も説明することではないから。ここから、ウンウンと唸って絞り出した私なりの答えは、この「平等」がなにの平等なのか観察することで見えてきた。ランシエールの言葉の強さに滅入って、自己反省に回収してしまい見えにくくなっていた。
ランシエールの平等とは、誰と誰の関係性の話なのかが重要なのではないだろうか。つまり、「人と人」教師あるいは教育者ー生徒の平等ではなく(やっぱりそれはどう考えても実現できそうにないし)、「人と対象」ではないか。

図にするとこんな感じだ。人と人では平等になりえないし、左の関係でいると、どうしても先生は説明を求められることになる。「先生、これであってますか?」という感じに。でも「人と書物」の関係になれば、生徒も先生も平等になれないだろうか。「先生、これであってますか?」と聞かれたら、「〜〜にはそう書いてあるね」と答えるときもあるかもしれないけれど、「どうだろう」と一緒に考えることができるのではないか。教科教育であれば、対象は「書物」だったり、先人たちの知恵や意見、あるいは答えが出されている理論になって、PBLだとプロジェクトの探求テーマになる。

なるほど、だから青春基地でのPBLでは、いつも一人一人の「やってみたい」から始めること、その思いをカタチにしたり、実現することでさらに育てていくということを大切にしているんだなと、思った。「やってみたい」を尊重することを、アルチセールをつかって解釈してみると、どうしても教育者や伴走者は、生徒よりも色々知ってしまっているから引っ張ってしまうことを防いでくれているとも言える。自分の経験に戻せば、引っ張ってしまっていたから、その力をすかさず生徒は見抜いていたのかもしれないし、こちらも盲目的であり、その関係ではプロジェクトが発展していかないから気づけたのかもしれない!今日は以上です。



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